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日向ぼっ子の大江戸散歩

現代のルーツ江戸を学んで今を探る

天才と古武道?!

上毛かるたの (わ) は 「和算の大家関孝和」 だと上州在住の遊さんが教えてくれました。孝和の生涯は養子の関新七郎が重追放になり、家が断絶したために多くが伝わらなかったとされています。

    上毛かるた1

孝和の父 内山永明は、寛永16年(1639)に天守番として上州の藤岡から江戸に移りますが、孝和は寛永12年(1635)から20年(1643)年の間に生まれたといわれており、生誕地も藤岡か江戸かはっきりしていません。

孝和は永明の次男で関家の養子となり、甲府の徳川綱重・綱豊に勘定吟味役として仕え、綱豊が6代将軍になると、西の丸御納戸組頭に任じられました。

室町時代末期に中国からもたらされたソロバンが江戸初期に普及し、それに伴う学習書が出版され、吉田光由の 『塵劫記』 で頂点に達したといわれますが、『塵劫記』 はソロバン入門書以上に農・商・工業に必用とされる数学が網羅されたものであったということです。

      関孝和 関孝和

その 『塵劫記』 を孝和は独学し、そこから点竄術(てんざんじゅつ)を発明し、和算が高等数学として発展するための基礎を作ったのです。点竄術とは筆算による代数の計算法で、孝和は行列式・終結式の概念を世界に先駆けたともいわれていますね。

天和元年(1681)頃に暦の作成に必要として円周率の11桁まで算出し、近似値は 「3.14159265359微弱」 としていますよ。

孝和の墓所は実家の内山家の菩提寺である牛込の浄輪寺にあります。

遊さんは、孝和の成果は弟子たちが奥義ととしたために色々功罪が生じ、一つには関流四伝の藤田貞資と最上流の会田安明との確執などもあるようだというのです。

浄輪寺から道路を渡り少し歩くと、儒学・軍学者の山鹿素行の墓所がある宗参寺がありました。

      山鹿素行 山鹿素行

素行は会津浪人の子でしたが、6歳で江戸に出て寛永7年(1630)9歳の時に林羅山の門下に入り朱子学を学びます。15歳になると軍学者 小幡景憲・北条氏長に甲州流軍学を学び、更に神道・歌学も学んで、老荘にも詳しい博覧強記の人だったようです。

31歳の時に播磨の赤穂藩 浅野長直に仕え兵学を教えます。寛文5年(1665)44歳の時に 『聖教要録』 を著し、朱子学を批判したことから保科正之によって赤穂藩へお預けの身となるのですが、赤穂では罪人としてでなく師として向かい入れたとされています。

大石内蔵助も門弟であったことから赤穂事件以降、山鹿流軍学は実戦的だと云われるようになりました。

延宝3年(1675)許されて江戸に戻り、「積徳堂」と号して浅草田原町で晩年を過ごしました。

素行は社会事業に対する客観的な知識を得ることにより、人としての生き方を見い出すところに新しさがあったが、古典の解釈では朱子学に依存していたともいわれています。

山鹿流兵法は、幕末には幕府兵学の主軸となり、相対した長州でも吉田松陰から門下生たちへ、明治天皇に殉死した乃木希典まで続きます。
乃木さん203高地攻めでは苦戦だったけど、山鹿流の影響は??

    試衛館跡 試衛館稲荷 稲荷社

最後に近藤勇の養父 近藤周助が開設した試衛館へ。江戸時代の史料に試衛館の記述はなく、新選組の隊旗が 「誠」 であったことから誠衛館ではないかという説もあるようですね。

試衛館は天然理心流の道場で、勇は4代目を継いでいます。

初代は遠江出身の近藤内蔵助で、2代目が八王子千人同心組頭の三助とされていて、三助の死後11年経って周助が3代目となるのですが、周助は武州多摩郡小山村名主の5男で三助から剣術の免許を受けたのですが、近藤姓を名乗ったことは謎とされています。

お鈴さんと黒岩屋さんは、試衛館跡に残るお稲荷さんを眺めながら 「土方さんもお参りしたのよね」 と悦に入ってました^^









▽コメント

 

ヒナさま
ご無沙汰しております。
ヒナさまもいらしたのですね、試衞館跡や宗修寺、浄輪寺。
父母のお墓が神楽坂にあるのですが、
いつもお参りをして食事して帰る繰り返しで
牛込を歩いたのは昨秋初めてでした。
林氏墓地が公開されていましたので。
最近「江戸の天才数学者」という和算家の本を読みました。
関孝和は魅力のある人ですね。
有能な幕臣だったという孝和の実兄のお墓も見逃したので、
また行こうかなと思っているところです。

 

小ツルさん、菩提寺が牛込だとしたら、そのお寺は古くは局沢にあったかも知れませんね。
牛込の寺院の多くが江戸城の初期に、局沢から移転させられたとか、菩提寺を調べるのも面白いかも。
関孝和の算額を見に数年前に上州へ行きました。上州も家康との関係が深い所ですよね。

 

ヒナさま
光照寺というお寺なのですが、
確か神田の方にあったお寺だと思います。
庄内藩の支藩松山藩の酒井氏の菩提寺で
大きな大名墓が沢山あります。
ここには幕府の天文台があったのですが
お寺のイチョウが観測に邪魔なので浅草に移転したそうです。

 

小ツルさん、光照寺は局沢16寺ではないようですね。
神田北寺町にあったのでしょうか?
ご府内が拡大するにつれて、神田から牛込・駒込・本所・深川などに
寺院の移転が見られますよね。
江戸初期の「武州豊嶋郡江戸庄図」で探すのも面白いかも。

 

ヒナさま
ありがとうございます。
デジタルライブラリーでちょっと覗いてみましたが
江戸のはずれの方は確認できませんでした。

 

小ツルさん、光照寺は神田元誓願寺町(神田北寺町)から
移転していて、開基が家康の叔父さんなのですね。
江戸庄図で誓願寺近くに光照寺は確認できませんが、中々由緒
あるお寺ですね。しかし現在の酒井家当主はキリシタンだとか。
家康の叔父の開基で、酒井家の墓があるとは中々興味深いお寺ですねぇ。

 

はい、酒井の御紋のついた水鉢とかもさらっと置いてあります。
昔は大きなお墓のある領域に入れたのですが、
311で崩れたので今は鎖が張ってあります。
今は改宗したからと管理費も修理費も払ってくれないと
ご住職がこぼしていました。
それから、神楽坂通りの、夏目漱石らが原稿用紙を求めたという
相馬屋さんという店の菩提寺でもあります。
とても大きなお墓なので、空襲の時は
光照寺のご本尊をこちらのお墓に入れさせていただいて
建物は焼失しましたがご本尊は無事だったそうです。
ご住職からお聞きした話です

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Author:日向ぼっ子
小千住生まれ、大千住育ち 江戸が大好きなおきゃんな中年増で~す。
江戸文化歴史検定1級取得


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