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日向ぼっ子の大江戸散歩

現代のルーツ江戸を学んで今を探る

相撲?!

北朝鮮の木造船が日本沿岸に漂着していることで、沿岸警備の不備が指摘されていますが、これは江戸時代から云われていることだと思ってしまいましたよー

相撲のニュースは憶測の話ばかりで、憶測でニュースを流しているメディアの意識が低下しているように感じませんか?

           力士

『嬉遊笑覧』 に 「昔の武士は組打ち好みたる故に、相撲を武芸とせし也。近世戦法そはなりて、組打ちを好まぬ故に武芸とせざる也。是故に今は下賤の業となりぬ」 鎌倉時代は武士が相撲を取るのが流行り、永禄頃までも続いていたというのですね。

信長が相撲好きという話がありますので、戦国末期頃までは武士も相撲を取っていたのでしょう。

相撲は古代に起源があり、11代天皇の 『垂仁紀』 には 「野見宿禰(ノミノスクネ)と当麻蹶速(タイマノケハヤ)に撲(トラ)しむ」 35代女帝の 『皇極紀』 に 「健児に命じて相撲しむ」 と書かれています。

江戸時代の慶安元年(1648)に 「勧進相撲とらせ申すまじき事」 という町触が出ています。勧進相撲中に喧嘩沙汰が絶えなかったことによるものと云われていますね。

          谷風 谷風

勧進相撲が禁止で生活に困窮相撲取りは、上野寛永寺の門跡へ駕籠訴をしたり、町奉行へ直訴までして、幕府に許可を願い出ます。36年後の貞享元年(1684)に興行の許可がおりました。

許可された理由には、江戸市中の治安と新開地繁栄策です。

江戸市中では、勧進相撲に変わって盛んになった辻相撲でも喧嘩が絶えず、辻相撲がこの頃流行っていた男伊達を競う 「かぶき者」 の格好の暴れ場所になりました。

勧進相撲の興行場所は固定されていたかったので、深川・本所の江東地域の新開地繁栄政策を目的にして、深川八幡や本所回向院で数多く興行されることになりました。回向院が固定された場所になるのは、天保4年(1833)ですよ。

京・大坂でも一時中断した相撲が元禄末から再開されます。

中断前の相撲には土俵がなく、力で相手を倒すものであったのですが、中断以降土俵が出来たことで、押出し・うちゃり・寄り切りなどの勝負手が多彩になり、40手・80技で小兵が大きな力士に勝つチャンスが増え、相撲の人気も上昇したと云われていますね。

       古今役者物語1
    
『古今役者物語』 の 「すまひのいひたて」図には、地面より三尺(90cm)高い所に四角く俵で囲み相撲を取っている絵が描かれています。

「蒙御免(ゴメンコウムル)」 は勧進相撲の申請が幕府から許可された証明でした。

何故 勧進相撲と云われたのかというと、儒教思想を建前としていた幕府は、庶民の娯楽の相撲興行ではなく、神社や寺の建立・修築とする資金を募るならば、相撲をして良いということから勧進相撲となったというのですね。

実際には力士の生計のための興行でした。

力士が大名のお抱えとなり士分待遇になるのは、谷風(仙台藩)・小野川(久留米藩)・雷電(松江藩)などの人気力士が出て来た天明から寛政(1781~1801)頃でした。

女性は観戦出来なかったのですが、花相撲と云われた稽古相撲は見ることが出来、本場所帰りがけの力士を見ようとしたというのですね。しかし、見世物では女相撲も元禄頃から催されていたのですよ。

ヒナの相撲の記憶は、栃錦VS若ノ花戦です。あの頃は、水入りや優勝決定戦が良く行われていましたが最近は、がっぷり四つの組相撲より、突いたり叩いたりや寄り切りばかり。

横綱は相手を受けとめると思って見ていると、立合いで相手に張り手では横綱相撲とは言えるのでしょうかねぇ。







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Author:日向ぼっ子
小千住生まれ、大千住育ち 江戸が大好きなおきゃんな中年増で~す。
江戸文化歴史検定1級取得


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