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日向ぼっ子の大江戸散歩

現代のルーツ江戸を学んで今を探る

虎口からの脱出?!

前のブログで報道について書きましたが、昨夕のTVニュースは政権と関わる前次官の会見より、芸能人の会見を優先してしまったのですよー

前次官の会見をネットで見ていると、大手新聞記者の質問は記者の能力が欠如しているのか、報道を歪めたいのか、何かおかしいかったですね。

前次官は会見で 「国家権力とメディアの関係に不安を覚える」 と発言してましたが、感じている人は多いのではないでしょうか。

    江戸城図虎ノ門
    右側の黒丸が虎御門    赤丸が内藤屋敷

文科省のある場所は地下鉄虎ノ門駅に近く、江戸時代は延岡藩内藤家の屋敷があったところで、虎ノ門は 「虎御門」 といわれた江戸城の主要な外郭門でした。

虎御門の虎の由来が、風水の四神相応からという説が有力だといわれていますよ。北が玄武、南が朱雀、東が青龍、西が白虎ということですね。

青龍を和田倉門近くの辰ノ口として見ると、辰ノ口は虎ノ門の東北にあたり 「左青龍 右白虎」 は、どこから見ての左右なのか定まらないというのです。又、外濠まで風水に基づいたか定かではないともいわれています。

    江戸勝景虎ノ門外之図江戸勝景虎ノ門外之図

虎を寅の方角と見るなら、北から東へ30度の方角なのですが、虎ノ門は江戸城の南にあたってしまいます。

虎御門の内側の堀端には 「比丘尼屋敷」 がありました。比丘尼屋敷は、将軍の愛妾が将軍亡き後に将軍の菩提を弔うために終身住んだ屋敷ですね。

中国では 「男は虎に跨り、女は龍に跨る」 といわれており、虎は女性を意味したことから高貴な男性を相手にした妓女には 「大磯の虎御前」 など虎の名前が多かったので、虎御門は比丘尼屋敷の門だというのです。

   江戸名所霞が関江戸名所霞が関

「虎口」 という説もあります。虎口は 「虎口を逃れる」 「虎口を脱出する」 という危機から逃れる意味から、江戸城から避難する裏門だったというのです。

江戸城初期には、虎御門の西側に1万1千坪の張り出した土地があり、馬出や桝形に十分な面積の土地だったのです。

馬出とは、直線の馬場で馬を乗りだす所で、味方の人馬の出入りを敵方に知られないように城門の外に半円形に築いた土手のことです。

加えて門を出た所に御庭番屋敷もあり、船で出れば赤坂溜池が近く、東に行けば道三掘から日本橋川を経て江戸湾に出られるのですね。

門の周辺には馬場や弓の稽古場 「大的場」 と、危機脱出には都合が良い造りになっていました。

太平の世が続き虎御門周辺は、武家屋敷となっていきます。

さて、政権危機の発端が文科省、虎口から逃れられるかなぁ??






▽コメント

 桜田御用屋敷と不浄門

ヒナさん、こんばんは。
いよいよ都議選が始まりました。
A総理も、S官房長官も、H官房副長官も静観の構え、応援に入らないようですね。特にH官房副長官は逃げ回っていて男らしくありません。

昨日は案の定、芸能関係の報道が全てに優先されましたね。最近はこのような傾向が顕著です。NHKは昔はきちんとリアルタイムで国会中継を放送したものですが最近はせず、反面、大関昇進伝達式や昨日の芸能報道は特番を組んで伝えています。

桜田御用屋敷の紹介がありました。将軍が身罷ると御代所も側室も大奥を去りますが、私はとりわけ、吉宗公が8代となり江戸城入りした際の4人の女性に着目したことがあります。御代所の一位様こと天英院は二の丸へ、お腹様の側室である月光院は吹上御殿へ、綱吉側室お伝の瑞春院は三の丸、竹姫は大奥残留の説が強いようですね。色々な時の思惑が交差して面白いです。

権力を振りかざし、また権力を隠れ蓑とし、己の欲と意地ばかりに目が眩む人間は是非とも不浄門から退場してほしいと願うばかりです。

 

袖萩さん、昼ドラの「やすらぎの郷」では、TV業界批判のセリフが
結構ありますが、TV業界でも古い人は感じているのでは??
TVも新聞もスポンサーや時の政権の影響があるのでしょうね。
戦後直ぐの時期は、戦中の報道を新聞は反省していたようですが、
戦中を知らない者たちになると、人間同じことを繰り返すように
なるのかも知れませんねぇ。
江戸仲間で、家光の正室本理院を調べている女性がいます。
以前 武道館裏の本理院が居住したであろう場所を皆で見に行き
ましたが、私たちマニアック処へ出没しています(笑

 忠長の子

ヒナさん、こんばんは。
度々すみません。

流石、倉本聰さん、しっかり暴れてくれているのですね。(笑)

ところで、鷹司孝子(本理院)は私も興味を持つ女性の一人です。
徳川家光との不仲説はあまりにも有名ですが、それ以上に、春日局の暗躍が大きく蔭を落としていたと思われます。
長七郎長頼は架空の人物だと思いますが、徳川忠長には妾腹の子があり、忠長の死後、孝子が春日局に掛け合い、これを保護したという話があります。真偽の程は分かりませんが。忠長の失脚と切腹(結果は自刃)は春日局の進言によるものという説もありますね。
孝子が別居していた吹上御苑広芝の「中の丸」は当時は狸や狐、猪が出るような寂しい場所であったらしいですね。
家光死後、四代も決まり、本当の意味で安堵したのは本理院だったのかもしれません。
その後、浅宮顕子、鷹司信子、近衛煕子と続き、将軍御代所は京より迎え入れることになります。本理院は長寿を全うすることにより、その存在を確かなものとし、幕府に京という楔を打ち込む役目を果たしたのではないかと思います。

 

袖萩さん、とんでもないです、コメント度々ありがとうございます。
これからもよろしくお願いしますm_ _m

本理院は、春日局が亡くなった後に春日局の屋敷の場所に住んでいます。
現在の武道館裏が中ノ丸の辺りで、地図と見比べると地形は、かなりの
段差がありました。
将軍家は権威を上げるために、朝廷・公家との婚姻を重ねますが、
初手は、お江が娘東福門院に依頼して、孝子を選んだ処からですねぇ。
極めつけは、家継の正室となるはずだった八十宮吉子ですが、
顔を見ることなく、2,3歳で後家ですから・・・。
家光と信子の不仲は、家光の男色だけでなく母と乳母の対立からも
表じてますよね。
孝子の墓所は於大の寺伝通院ですが、亡くなっても離ればなれですね。

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Author:日向ぼっ子
小千住生まれ、大千住育ち 江戸が大好きなおきゃんな中年増で~す。
江戸文化歴史検定1級取得


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