日向ぼっ子の大江戸散歩

現代のルーツ江戸を学んで今を探る

殿は冒険がお好き?!

幕末の四賢侯といわれ、政治総裁職だった松平慶永(春嶽)は、明治19年(1886)還暦のときに、妾腹に男子が生まれます。春嶽は出産を喜び、5男でしたが自分の幼名 錦之丞と名付けます。

      松平春嶽 春嶽

錦之丞が3歳の時に父春嶽は亡くなり、その後生母に育てられ、明治25年(1892)に学習院初等科に入学しますが、1年生で落第してしまいます。臆病で、柔弱で成績不良だったからなのか、学習初等科教師の家に預けられました。

紀尾井町の長屋が多い地域だったので、長屋の子たちと遊ぶ内に、逞しくなって行きます。明治の中期では、紀尾井町に長屋があったことが判りますね。

20歳の時に尾張徳川家の長女と見合いをしますが、入り婿を嫌い断ります。

すると井上馨に 「越前松平の5男より尾張徳川家の当主の方が活躍の舞台が大きい、君は徳川の人間だから徳川の為に尽くせ」 と諭され、婿入りを承諾します。

名前を錦之丞から義親に改め、婚約から2年後養父の義禮(よしあきら)が亡くなり、家督相続と侯爵を襲爵します。

この年 学習院高等科を最劣等で卒業すると、帝国大学文学部史学科に入学します。

      徳川義親 義親

さすが、徳川の殿様は歴史が好きかと思ったら、歴史に興味あったのではなく、無試験で入学出来たので、史学科を選んだのですよ。現在も無試験なら入学したいなぁー^^; 

学業は劣等生の義親ですが、子供のころに読んだ 『十五少年漂流記』 きっかけに探検に憧れていました。

尾張徳川家が士族授産のために、開墾していた北海道に行ったときには熊狩りをし
マレー・ジャワ旅行では、虎狩りをして 「虎狩りの殿様」 と云われました。

理容業界の組合から 「虎狩り」 と 「虎刈り」 をかけて会長就任を打診され、承諾したとの逸話があります。

明治43年(1910)に 「名古屋開府300年紀念大祭」 で、家宝の什器を展覧して好評を博します。これが後に徳川美術館設立のきっかけとなりました。

理財には長けていたようで、歴代藩主の墓を掘り起こし、遺体を火葬して納骨堂に納め、土地を活用します。

「家を縮小すれば財産の大部分は失ふけれども、同時に心も軽くなる」 と義親は言っています。

戦前の未遂に終わったクーデター計画3月事件では、手元の金塊を処分して20万円を援助をします。当時1円が現代の3,000円位だったので、6億円ほどですね。

義親は戦前は右翼と関り、戦後は社会党を支援し社会党顧問や日ソ交流協会の会長になっています。

徳川家には、多種多彩な人物が居たものですね^^





▽コメント

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

▽トラックバック

http://edosanpo.blog109.fc2.com/tb.php/1541-d148709e

 | HOME | 

プロフィール


日向ぼっ子

Author:日向ぼっ子
小千住生まれ、大千住育ち 江戸が大好きなおきゃんな中年増で~す。
江戸文化歴史検定1級取得


最近のコメント



最近の記事



カテゴリー



最近のトラックバック



月別アーカイブ



ブロとも申請フォーム


この人とブロともになる


ブログ内検索



RSSフィード



FC2カウンター



リンク


このブログをリンクに追加する