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日向ぼっ子の大江戸散歩

現代のルーツ江戸を学んで今を探る

兄弟の風説?!

三代将軍家光の母 お江は、家光より1歳半下の弟 忠長を可愛がっていました。

徳川家臣は、家光派と忠長派に分かれて、愚鈍な家光より利発な忠長になびく者が増えることに、家光の乳母お福(春日局)は危機感を覚え、駿府の家康に直訴をして、家康が秀忠とお江の前で、将軍継嗣は家光であるとの宣言は有名な話ですねぇ。

母のお江は、色白で利発な忠長を溺愛し、血色が悪く、自分になつかず、吃音の為に口を利くことが少ない家光を、疎んじたと書き残されています。

寛永3年(1626)に、お江が亡くなります。

その後しばらくは父秀忠を介して、家光と忠長は良好な関係を築いていたようです。

寛永5年(1628)9月忠長は、母の死を悼んで崇源院の霊廟を作っています。

この廟は現在 目黒の祐天寺に安置されていますが、当時 忠長は母の3回忌に芝 増上寺宛に 「(幕府に無断で)駿府に母親の霊廟を造るよう命じたので、(増上寺での)三回忌の法会に参会できなくなった」 と手紙を書き送っています。

この廟は長く家康の為のものと思われていたのですが、2008年に修復の時に屋根組みの柱に 「寛永五年(1628) 建立 宗源院様御玉家」 と記されたものが見つかっています。

廟は、高さ2.38m、幅2.1m、奥行き1.35mで、金箔を使い、極彩色の外観で、内部には極楽をイメージした蓮華や飛天が描かれ、外装は蓮華の文様や逆蓮(ぎゃくれん)の彫刻が施された、かなり大きなものです。

        崇源院廟 崇源院廟

2011年に江戸博の 「江~姫たちの戦国」 展に展示されていましたよ。

結局 忠長は父秀忠亡き後、家光によって自刃させられることになりますね。

明治34年(1901)に皇后は、日嗣の御子を生み、翌35年には弟宮が誕生しました。

この兄弟もまた兄が愚鈍で、弟が利発であったといわれています。

母である皇后が、二人に欲しい物を訊ねると、兄は欲しい物がなければ 「何もない」 と応え、弟はなくても母を喜ばす物を望むというところがあったようです。

母皇后は、自分と同じ生まれ月日で性格の似ていた弟宮を偏愛するほど可愛がっていたというのです。

後に弟宮は食事に1時間も掛ける兄に対して 「鈍行馬車」 と陰口を云っていました。

        崇源院1

昭和6年(1931)に一部の将校が目指した軍事政権樹立の際に、将校たちは天皇を弟宮に交代させるクーデターを計画したり、弟宮は天皇に 「憲法を停止して天皇親政」 を提言したりします。

2.26事件の時には、弟宮が青年将校と協同歩調を取ろうとしたといわれています。

弟宮は昭和13年(1938)から15年間結核を患い亡くなります。

敗戦から9日後 弟宮は療養先の御殿場から突然上京して、マスコミに 「私の病気はほとんどよくなった」 と発表します。

この時、天皇の進退は決まっておらず、皇太子も未だ11歳だったので、戦争責任を問われ天皇が退位することがあれば、摂政を置くことになるという考えはあったのかも知れませんね。

家光と忠長は異母兄弟説がありますが、同じように天皇と弟宮には異父兄弟説や双子説など、兄弟が不仲になると色々な風説が広まるものです。







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Author:日向ぼっ子
小千住生まれ、大千住育ち 江戸が大好きなおきゃんな中年増で~す。
江戸文化歴史検定1級取得


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