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日向ぼっ子の大江戸散歩

現代のルーツ江戸を学んで今を探る

天皇の意地?!

師走になり、この1年も瞬く間に過ぎ去ろうとしています。何もしない、出来ない2年でした。

愛子内親王が成年となりました。お顔立ちが天皇家の血筋のようでしたが、皇后陛下の面差しにも似ていらしゃいました。巷では、愛子天皇待望の声もありますね。

     後水尾天皇 後水尾天皇

江戸時代 2代将軍徳川秀忠の5女和子(まさこ)は後水尾天皇の女御として入内し、皇子2人皇女5人の7人の子をもうけました。

皇女3人は成人しましたが、4人のお子様は夭折されました。

寛永6年(1629) 34歳の後水尾天皇は、背中の腫れ物が酷くなり体調不良による譲位を希望します。

      明正天皇 明正天皇

幕府は譲位後の天皇が和子の子 女一宮なるのは女帝一代で終わり、徳川の血が皇統に残らないことと和子が懐妊していたので、皇子の誕生後に譲位し皇位継承が望ましいと考え反対します。

生まれてきた子は皇女で、天皇の譲位の意向が固かったことから幕府は、家光の乳母お福に天皇の体調を確認させるために、参内させようとします。

天皇は無位無官の武家の女との拝謁に不快を示し「武家のむすめ堂上の者の猶子などになって、御前に参ること近き頃までは曾てなき事也」と、近臣も「勿体なきこと、帝道民の塗炭(ひどい苦痛)に落ち候事」と記しています。

天皇は幕府に不快であっても、お福に拝謁を許し天盃を授け、名を春日局と改め参内は終わりました。

春日局参内から5日後 近臣土御門泰重は天皇に呼ばれ「口外に出さず候事、仰せ聞かされ候」と密命を受けます。

それから半月後の朝 公家衆に束帯を着け直ちに参内せよとのお触れがありました。使いの者に何事か聞いても分からず、公家衆は何の御用か知らず不審だと訝しがり参内します。

「譲位である」と突然告げられ、公家衆は「諸卿共驚顛気色」の様子でした。

幕府は京都所司代 板倉周防守から公家 中院通村に急な譲位を訊ねさせると「僧に紫衣を許すと申し付けると江戸で奪い取る。何が面白くて天皇の位に居座るものか」と、先の紫衣事件に対しての天皇の憤怒からだというのです。

紫衣事件とは、天皇が僧に対して紫衣を着けることを勅許していたものを、幕府が禁じたことでした。幕府は天皇の権威を縮小するためと、寺院勢力を幕府支配下に置くために紫衣の勅許を禁じたのでした。

幕府では将軍を退いて大御所として君臨していた秀忠が激怒して、後水尾上皇を隠岐島へ流すべきではないか云ったのですが、将軍家光が大御所を諫め幕府からの咎めはなく終わりました。

「葦原やしげればしげれおのがまゝ とても道ある世とは思はず」と後水尾天皇は詠っています。天皇は幕府の出方次第では、何かを目論んでいたというのですが、幕府の沙汰がなかったことから拍子抜けしたというのです。

寛永7年(1630)9月12日に称徳天皇依頼 約850年ぶりに女一宮は7歳で、明正天皇として即位し、徳川は外戚の地位を手に入れました。明正天皇は13年11ヶ月 20歳まで皇位に付き、異母弟 後光明天皇に譲位しています。

江戸時代にはもうひとりの女帝 後桜町天皇がおりました。





さがるもの?!

人間の身体は年齢とともに筋力が衰え下にさがるというけど、今回の健康診断と眼の定期健診でその傾向が現れて来たので、筋トレ方法を変えたら筋肉痛が出たので、効いているかも・・・。

さがるといえば、16世紀頃からロシアは港を求めて南下していました。はじめはウラル山脈を越えて毛皮の産地だったシベリアへ進出し、更に南下を試みると清国に阻まれ、東に勢力を伸ばします。

          最上徳内 最上徳内

ロシアがカムチャッカ半島から南下して千島列島(クルリ列島)に渡って来たのは、正徳元年(1711)占守(シュムシュ)島に上陸したのがはじめで、2年後幌筵(パラムシル)島に上陸しました。

千島には毛皮になるラッコなどが生息していたので、ロシアはどんどん南下をし、寛政7年(1795)には得撫(ウルップ)島に40人程のロシア人が住んだといわれています。

日本は元和元年(1615)にアイヌとの交流で、アイヌの人たちがラッコを献上していた記録があります。

正保元年(1644)松前藩は家臣の村松広儀に、千島の島々が描かれた「正保御国絵図」を作成させていますが、ロシアは元禄10年(1697)にカムチャッカ半島で千島の島々のことを知ったとされています。50年ほど日本が早いですね。

宝暦4年(1754)になると日本は「国後場所(交易場)」が開かれ、千島との交易は厚岸から移ったことで、ロシアの千島進出を知ることになりました。

ロシアは、寛保元年(1741)にベーリング(ベーリング海峡発見)がアラスカに上陸しロシア領としますが、安政2年(1855)クリミア戦争に敗北したロシアは疲弊し、慶応3年(1867)米国に720万ドル(現在の価値で131億円相当)で売却してしまいます。

天明5年(1785)幕府は千島に調査団を送りますが、その調査に最上徳内が加わっていたのです。

翌天明6年(1786)徳内は、択捉(エトロフ)島と得撫(ウルップ)島に渡り、ロシアの千島での活動状況を調査します。寛政3年(1791)徳内が択捉島を再び訪れたときには、ロシア人はいなかったというのです。

寛政10年(1798)になると、徳内と共に近藤重蔵が択捉島に渡り「大日本恵登呂府」と木柱を建て日本領土としました。享和元年(1801)には択捉島に役人を送り、島の守備と漁場を開きます。

安政2年(1855)日魯通商条約の締結により日露の国境は択捉島と得撫島の間とされました。

昭和20年(1945)米国はソ連に対して対日参戦を求める代償として、千島列島をソ連に引き渡すヤルタ協定を結びます。

昭和26年(1951)のサンフランシスコ講和条約に於いて、日本は千島列島に対する全ての権利・請求権を放棄するとされていましたが、歯舞群島と色丹島は北海道の一部といっています。

昭和31年(1956)の日ソ交渉でも択捉島・国後島の放棄もやむを得ないが、歯舞群島・色丹島は譲らないとしています。ソ連とは平和条約が締結されていませんが、締結されたときには歯舞群島と色丹島を引き渡すことに同意するというのです。

先日 新外相がロシアの外相と北方問題を含む平和条約交渉を進展させるために、早期の対談の申し合わせを電話でしたとのニュースがありました。

戦後76年経って、未だ平和条約は締結されず、北方四島の返還は絵空事で終わってしまうのでしょうか。






ふたりの若者!?

昨夜は部分月食で空を見上げた人も多かったのではないでしょうか。

     欠けた月 満月
                月食から満月へ

野球の大谷選手が満場一致でMVPを受賞、藤井竜王が五冠獲得への王将戦挑戦権を獲得の勝利と、昨日一日 若者が躍動しました。

お二人の共通点を考えてみました。好きなことへの飽くなき探求心と、上手くなりたい、強くなりたいとの向上心、世間の評価に対して驕らず謙虚であることなのでしょう。二人ともお金には無頓着なのも好感が持てます。

日本が占領されていた時期、米国は「日本の生活水準を、日本が侵略した国々の生活水準より高くないようにしておく」という考えを持っていました。

日本の軍事力を支えた経済的基礎、空襲などで破壊された工業施設などの再建は許さないとされ、昭和21年(1946)の日本経済は戦前の昭和5年(1930)から昭和9年(1934)の18%のレベルでした。

ところが昭和23年(1948)になると米国の方針は180度転換します。

将来極東で起こるかも知れない全体主義との戦争に対し、日本が抑止力として貢献できるよう、日本が自給自足の民主主義を作ることを目的として、日本にある程度の経済的自立を与えるべきだとの意見が出て来ます。

米ソの冷戦に対して、日本を防波堤として使うために経済力を付けさせるというのです。敗戦で日本は米国の世界戦略の将棋の駒の一つになり、米国の方針が変われば日本の役割も変わるのは、占領期以降今に続いているのでしょうね。

安倍元首相の祖父岸信介は、昭和21年(1946)巣鴨プリズンの中で「冷戦の推移は我々の唯一の頼みだった。これが悪くなれば首を絞められずに済むだろう」と考えていたと、のちに書いています。

占領初期の米国は日本を二度と米国の脅威にならないようにすることと、懲罰的な態度で望むことでしたが、冷戦が始まると経済的・政治的安定と軍事力を強化し、米国の安全保障に貢献させる方針になりました。軍事力とは、サンフランシスコ講和条約時に吉田首相のみが調印した、安全保障条約に於ける警察予備隊からの自衛隊ですね。

GHQのマッカーサーは日本の軍隊の再編成に反対で、国連・米国の保護の下恒久的な非武装、中立の状態に置くことでした。

マッカーサーと米国本土の政府トルーマン大統領は日本に対する方針で対立することになり、朝鮮戦争でのマッカーサーの失態で退任させられます。

日本を去るマッカーサーに対して、首相の吉田をはじめ東京都議会・経団連が感謝の意を表し、マッカーサー記念館建設の動きやマッカーサー神社を作る話などがありました。

朝鮮戦争の特需もあり、日本経済は急速に回復し、従来の日本人の勤勉さ故から伸張に繋がる結果になるのですね。

コロナ禍の暗い話題の日本に於いて、米国の地で一人の若者のホームランが人々に与えた喜びは大きかったように思います。






派手な衣装に惑うな!?

派手な服装で監督就任会見やキャンプ視察をした新庄さんが話題になっていますが、選手へのアドバイスも的確らしく、選手もやる気になっているとか。

今は派手な服装やパフォーマンスが目立ちますが、来年の日本ハムファイターズの活躍に期待したいですねぇ。

   水野十郎左衛門  幡随院長兵衛
     水野十郎左衛門             幡随院長兵衛

江戸初期に、派手な衣装で世間を騒がせたかぶき者といわれた人達がいましたよ。

かぶき者とは関ヶ原の戦いから大坂の陣の後に、江戸や京で流行った派手な身なり、異様な風体を好み常識を逸脱した行動をする者のことですが、太平の時代になって非道と思われる権威に反発する男伊達でもあったのです。  

慶長17年(1612)鈴ヶ森で25歳で磔刑に処せられた大鳥逸平(一兵衛)というかぶき者が居ました。

天正16年(1588)に生まれたとされ、本多信勝に徒歩として仕え逐電後に、大久保長安配下で士分となります。

武士の素質はあったようで、家康の天下普請では人足元締めをやったといわれていますが、大久保家を去り江戸で牢人(浪人)となり、中間・小者といった下級武家奉公人を集め、異装・異風で男伊達を気取って無頼な行動で武家に対抗しました。

相撲好きな大鳥は、高幡不動尊での相撲興行に現れ捕縛されます。このとき大鳥を捕えきれずに、高幡不動の僧侶が「不動金縛りの法」を使うと、大鳥は急に身動きが出来なくなったとか。

取り調べで拷問を受けても仲間の名前を口にしなかったので、北町奉行米津田政が「小便でもかけろ」と暴言を吐くと、「自分は士分である。取り調べが不当であるが、米津の息子勘十郎も仲間だから小便をかけて詰問しろ」と言い放ちました。

大鳥は「廿五まで生き過ぎたりや一兵衛」と太刀に刻んでいたとか、図らずも25歳で死ぬことになってしまいました。捕らえられ斬首されたかぶき者は、300人に及び旗本子弟も処分されています。

米津勘十郎は津軽藩にお預けとなり、元和3年(1617)に放免されました。

その後も旗本奴や町奴として男伊達の者たちが出現し、旗本奴の大小神祇組を率いた水野十郎左衛門と町奴の幡随院長兵衛の抗争は有名で、芝居や小説の題材にもなっていますね。

男伊達は体制内に安住せず、権威に屈服せず男の意気地を行動で示す男を指しますが、現代ならジェンダー云々とか言われそうで、男伊達より女伊達だったりして。






将棋!?

将棋の藤井聡太3冠が苦手としていた豊島将之竜王に、あと1勝で竜王タイトル奪取、王将リーグでも勝ってしまいました。今年になっての藤井3冠は、より強くなったようですね。

将棋は古代インドのゲームチャトランガを起源として各地に伝わり、ヨーロッパではチェス、日本では将棋になったといわれています。

       天喜6年興福寺の出土将棋駒 
        天喜6年(1058)の木簡と共に興福寺から出土した駒

平安時代に将棋の原型があり、室町時代にルールが確立したとされ、取った駒を自駒として使用する日本独特のやり方が出来たといわれています。

織田信長は将棋を戦陣に見立て、徳川家康は戦国武士の荒々しい気性を和らげる娯楽として推奨したとされているのです。

戦国武将朝倉義景の館跡から177枚の将棋の駒が発見され、古将棋に使われていた「酔象」という駒がありました。「酔象」の裏は「太子」で、酔象は真後ろには動けないだけで王将と同じ動きをします。

成り駒の太子は王将と同じ動きをし、王将の世継となり王が取られても太子が詰むまで続けらえるというのですね。天文年間になると、後奈良天皇が酔象の駒を除かせたともいわれています。

信長が日海という日蓮宗の僧と碁を打ち名人と褒めたといわれ、豊臣秀吉は日海に20石20人扶持と朱印状を与え遇しました。

45歳で碁をはじめた家康は日海を指南役として50石50人扶持で遇したとされ、日海の名を算砂と改め、住んでいた塔頭の本因坊から本因坊算砂とし、碁将棋所(ごしょうぎどころ)としました。当時は碁・将棋と分かれておらず、どちらも出来たというのです。

慶長17年(1612)将棋所が碁所から分かれ、大橋宗桂が初代将棋所となります。将棋所は寺社奉行の管轄下で、江戸時代の名人を世襲する大橋家・大橋分家・伊藤家が名乗った称号です。

二代目宗古の弟宗与が大橋分家を、宗桂の娘婿伊藤宗看が伊藤家を興しました。

将棋三家は明治になると扶持を得ることがなくなり、将棋界も形態が変わって行きます。

江戸時代は縁台将棋も好まれ「ヘボ将棋王より飛車をかわいがり」と、有名な川柳にも詠まれてましたね。

藤井3冠竜王戦あと1勝で最年少の4冠が楽しみですが、豊島竜王の強さが影を潜めたのはどうしたのでしょう。







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Author:日向ぼっ子
小千住生まれ、大千住育ち 江戸が大好きなおきゃんな中年増で~す。
江戸文化歴史検定1級取得


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