日向ぼっ子の大江戸散歩

現代のルーツ江戸を学んで今を探る

幕末の疑問・・・?!

自分の思い通りに物事が進んでいると、人は驕慢になり、何故か足元を掬われることが起きるような気がしますよ。世間を騒がせている事象が、蟻の一穴になるかもしれませんしね。

        阿部正弘 阿部正弘

黒船の到来した幕末、老中首座 阿部正弘は外様大名・下級幕臣や庶民に広く意見を求めました。これが幕府崩壊の蟻の一穴だったかも知れないのです。

勝海舟はこのとき、身分を問わず有能な人材を登用、積極的に貿易をし、その利益をもって国防費に当てること、江戸の防備を強化すること、旗本の困窮を救うため兵制を西洋式に再編成し、訓練所の建設も行うこと、火薬の生成工場の建設などを建言し、活躍の場を得ました。

           海舟2 勝海舟

しかし、今まで幕政に口を出すことが出来なかった薩摩藩主 島津斉彬や水戸藩主 徳川斉昭、福井藩主の松平春嶽らも幕政に参画してきます。

船頭が多くなれば船の方向性が定まらないように、幕府の対応も決まらず、大政委任を放棄して朝廷へ勅許を求めることで、更に混迷を深め、挙句の果てに下級武士が尊王攘夷を唱え始めることになるのです。

幕末史を見ていると、阿部正弘の 「言路洞開」 と、西郷隆盛・坂本龍馬・吉田松陰の礼賛に疑問を持っていたのです。

          明治維新という過ち

その疑問を氷解してくれたのが原田伊織氏の 『明治維新の過ち』 『官賊と幕臣たち』 『大西郷という虚像』 の3部作でした。今まで中々しっくりくる明治維新の反論書に出合わなかったのですよー
          
松陰の唱えたことから起こった長州の行為は、後に奇兵隊から出た世良修三のような人物を生むことになり、会津の恭順を受け入れずに東北での戦を起こし、白虎隊より幼い子供たちで形成された二本松少年隊の悲劇に繋がることになったのですね。涙なしでは読めない箇所です。

          奇兵隊 奇兵隊

龍馬が提言したとされる 「船中八策」 は、幕臣 大久保忠寛(一翁)の以前からの構想を基にしたものであることは、幕末史をご存知の方なら知っていると思うのですが。

           大久保一翁1 大久保一翁

龍馬は幕府の使いぱしりだったのではないか、後に亀山社中を起こし薩摩の手先に変わったのではないのか。龍馬が英雄になったきっかけは、不当な日露戦争を鼓舞するために創られたかも知れない昭憲皇太后の夢だったのでないか。

          龍馬2 坂本龍馬

西郷の小御所会議における言動、岩倉たちが慶喜の 「辞官納地」 を主張し、反対した山内容堂に対して 「短刀一本あれば片が付く」 と云ったこと、益満休之助や相楽総三に江戸での強盗・強姦・放火などの行為を指示し、幕府との戦闘を構えるやり方や征韓論を主張したことが疑問でした。

征韓論は西郷でなく板垣退助が言い出したようですが、西郷は自身で 「戦好き」 と云い、「謀略好き」 であったともいわれているのです。

江戸での焼き討ち行為の後、相楽総三は赤報隊隊長として、民衆の支持を得るために薩・長軍から言質を得た 「年貢半減」 を掲げ信州に進軍します。

鳥羽伏見の戦い後の慶應4年(1868)3月になると薩長軍は 「年貢半減」 を取り消し、赤報隊を 「偽官軍」 として討伐し、相楽は下諏訪で処刑されます。使い捨て??

江戸城無血開城の会談は、西郷と海舟だけでなく一翁と山岡鉄舟も同席したそうです。

ヒナ的には、海舟より一翁の方が有能だと思っているし、阿部正弘は言路洞開の愚策だけではなく、幕末の外交において川路聖謨・井上清直(川路の実弟)・水野忠徳・岩瀬忠震などかなり優れた人材を登用しています。

正史は勝者のものなので前史を否定するのだから、正史に疑問が沸いたり、反論を読んで見るのも面白いですよねぇ^^










江戸の歌舞伎は・・・!?

日曜日に久々に国立劇場の歌舞伎を見に行った。 通し狂言「伊賀越道中双六」 で中村吉右衛門が主役 唐木政右衛門を、義理の息子の尾上菊之助が和田静馬を演じました。

         富司純子   
      
菊之助が出ていたので、劇場のお迎えに富司純子がいましたよ。遠目でしたが細い方です。

「伊賀越道中双六」 は有名な江戸時代三大仇討の一つ、荒木又右衛門と渡辺数馬の 「鍵屋の辻の決闘」 を題材にしていますね。

狂言は 「岡崎」 の場面を中心に繰り広げられ、江戸歌舞伎の粋(スイ)が全て収められたお芝居です。

粋を大辞林で見ると 「人情・世情に通じているさま。 遊里・遊興に精通していること」 なのですが、これらの要素が、通し狂言にぎゅうぎゅうに詰まっています。

          パンフ

出会って直ぐに恋に落ち、雪の夜間に突然現れた離縁し六部になった女房と赤子、剣豪なのに後ろの悪人の影が分からない政右衛門。

現代から見たら 「わぁ~!なんでもありか~ぃ!!」 の状況が次から次へ重なる、これぞ 「ザ江戸歌舞伎」 という感じなのですが、当時の人は楽しんだのでしょうねぇ。

「藤川新関の段」 では、飛脚の助平が茶店の遠眼鏡を覗くと馴染の妓が他の客と睦まじくしている様子が見えたのです。そこははるかかなたの吉田宿であるのも忘れて逆上する所作が面白い。

          助平 中村又五郎

更に遠眼鏡で見えるのは、団子売りの夫婦が身振り手振りも面白く団子を売っている様子を助平が表現します。中村又五郎の一人芝居が上手かったですよ。

吉右衛門さんちょっと身体が不調かしら、お歳を召したからかな??でも、未だ70歳を超えたばかりのはずなのよね。

吉右衛門の鬼平犯科帳は重厚で、TVで楽しんだりばかりでなく、DVDまで借りてみましたよ。

吉右衛門が未だ万之助、松本幸四郎が染五郎で早稲田の学生時代にTVに出たのですが、二人ともすご~い大根役者だったのを覚えています。何の番組か探ってみると1966年のシオノギ劇場だったようです。

        3階廊下 3階廊下

久しぶりの歌舞伎を、びらグルメのメンバーと楽しめたのはチケットを予約してくれた広目屋さんのお陰様でした。3階の一番前の席は、全体を見通せて良かったです^^

国立劇場で面白い狂言があったら、平日の予約を取って見ようかしら?!







千住で育まれた江戸文化?!

昨日は 「千住の文化と美術」 講座の最終回で 「千住と文晁の系譜」 を聴いて来ましたよ

谷文晁の父は田安徳川家の家臣で、文晁は下谷根岸で生まれています。文晁も酒井抱一も武士だったのですね。

            谷文晁 谷文晁

文晁は25歳で田安家の奥詰見習いとして出仕、寛政4年(1792)に老中松平定信の近習になります。

定信の寛政の改革は、天明7年 (1787)から寛政5年 (1793)といわれていますので、文晁は改革の最後の1年を定信の傍に居たということですね。

            定信  定信

定信は成果が上がらない改革中に突然罷免され、老中首座並びに将軍補佐の職を辞します。

老中失脚後の定信は白河藩の藩政に専念し、文化9年(1812)に家督を長男の定永に譲り隠居をしました。文晁は定信が隠居するまで定信付として仕えました。

文晁は12歳の時に狩野派を学び、その後中国の南宗画(なんしゅうが)・北宗画・大和絵・西洋画を学びます。
        
          集古十種文晁  集古十種

定信の命により、各地の古社寺や旧家の古文化財を模写・記録した 『集古十種』や『古画類聚』 を編纂・刊行します。

文晁は定信の隠居後も奥詰の地位を維持したまゝ、下谷二丁町に画塾 「写山楼」 を開き画業に専念します。「写山楼」 の弟子には渡辺崋山もいましたよ。

      古画類聚文晁 古画類聚

弟子には武士が多かったのですが、女性や百姓、商人もいたのです。

百姓の一人に武蔵国沼田村(現足立区江北)の船津徳右衛門がおり、文晁から 「文淵」 の号を授与されました。船津家には文晁の画が多く所蔵されていましたが、明治になり文淵の孫の代で古書店に手放します。

全ての資料を手放したのではなく、文晁、文淵の作品や日記類は船津家に現存し、足立区郷土博物館で解明をしているようです。

船津家に伝わる話に、文晁は西新井大師総持寺に屏風絵を制作した時、船津家から西新井大師へ通っていたというのです。

          西新井大師洋犬絵馬抱一 洋犬図絵馬

西新井大師は、昭和41年(1966)に放火に遭い本堂は焼失しますが、文晁の屏風絵と酒井抱一が八百善4代目 栗山善四郎から依頼された 「洋犬図絵馬」 は焼失を免れました。

今回の3回講座で、今まで疑問だった千住の旦那衆と江戸の文化人との交流や千住の文化レベルの高さが判り、長年の胸のつかえが下りましたよー^^






責任者は誰だ!?

最近のニュースを見ていると、徳川時代に起こったことのようですね。

兄弟の殺人は、兄の家光が同母弟の忠長を抹殺したこと、元知事の言い訳は聞いていたら、「左様せい公」 「そうせぇ公」  かとツッコミ入れたくなりましたよ。

     家綱 家綱

「左様せい公」 は、徳川家綱4代将軍ですね。家綱の父家光は男色好みで、30代に漸く側室に子が出来ます。家綱は家光が38歳で出来た跡継ぎ、家光が亡くなったときに家綱は11歳の少年でした。

病弱であった家綱は、生後すぐに脳膜炎に罹り、軽度の知的障害の後遺症があったといわれていますね。

      保科正之 保科正之

家光は自分の死期を悟ると異母弟の保科正之に 「宗家を頼みおく」 と後事を託しました。

更に、「右手は讃岐、左手は伊豆」 と酒井忠勝と松平信綱に 「殉死は許さぬ。家綱を頼む」 とし、小姓時代から自分を支えてくれた阿部忠秋を家綱の傳役(もりやく)にします。

この様に家光時代の老臣が家綱を支える体制が出来、本人は大奥でチヤホチャ甘やかされて育ちます。

17歳になり結婚をすると、大目付や目付に 「これまでは直接諸事を聞くことがなかったが、今後は直に申し出よ」 と宣言しますが、この頃は 「政務みな権臣に委任ありて」 となっていたので、家綱に申し出る者はいなかったでしょう。

家綱の性格は優しく、大人しかったこともあり、有能な幕閣の政権運営に対して 「左様せい」 と許可を与えるだけのお飾りの将軍に甘んじていたといわれています。

        家慶 家慶

「そうせぇ公」 といわれたのは12代家慶で、父の家斉が50年間将軍の地位に君臨した後大御所として45歳の家慶を後見したといわれていますよ。

文恭院殿御実紀(家斉の院号)によると家斉を 「遊王となりて数年を楽しみたまふ。嗚呼 福徳王と申し立てまつるべきかな」 艶福家の家斉への評は的を得ているような。

        家斉 家斉

家慶は50歳を目の前にして漸く家斉が亡くなったのですが、実権のないまま家臣がいうことに 「そうせぇ」 とうなずいていたことが 「そうせぇ公」 といわれた所以です。

この頃 水野忠邦の天保の改革があり、世は節約・節約と言われて全てを引き締められていました。

家慶は自室に屏風を巡らしその中へ奥医師を一人入れて、最初に座布団や衣類等のやわらかい物を投げ入れ、頭に被って待ち構えていると、掛け軸や花瓶、火鉢や硯箱と色々投げ入れ 「もうよいか、まだか」 と問い 「まだ、まぁだ」 の声があれば、屏風からあふれるほどに投げ込み、投げ込んだものを奥医師に拝領したという、たわいない遊びでストレスを発散していたという話もあります。

どちらも有能な家臣が政治運営していたからでしょうね。

ふと、昭和天皇がマッカーサーとの会談で 「全ての戦争責任を負う」 と言ったことを思い出しました。






薬は江戸話と肉!?

昨日は、びらグルメで紀尾井町ガーデンテラスの 「今半」 で、鹿児島黒毛和牛のすき焼きを頂きました。

     肉

牛を食べることは江戸時代はご法度でしたが、文明開化の明治になると人々は好んで食べるようになりましたね。仮名垣魯文の 『安愚楽鍋』 という作品は、肉鍋屋の様子が面白く描かれています。

日本に仏教が入って来ると 「殺生禁断」 の教えから、今までの日本人が食べていた肉を食べることが禁止されますが、一般人は牛馬以外のイノシシや鹿は食べていました。

      お麩

牛馬は、農耕に必要な家畜であったことから食べるということはなかったのですね。欧米に追い付け追い越せ精神の明治政府は、牛肉の美味しさを知ってしまったのでしょう。

       鶯
      
赤坂プリンスホテルの跡地に出来た紀尾井町ガーデンテラスは、外部との融合を考えた店舗の並びなので、お店を探すのが大変です。

       ツリーツリー1


すき焼きランチの先付けは、胡瓜でかたどったウグイスが乗る上品な甘みがあるカリフラワー豆腐、見た目も食感も良い感じでした。

卵に絡めたお肉はとろけるようで、野菜や今半の焼き印があるお麩も美味しかったです。

        赤坂プリンス 旧李王家邸

食後は、紀伊様屋敷跡から赤坂見附、李王家邸跡の高輪プリンスホテル旧館を横目に、平河天満宮、渡辺崋山の誕生した三河田原藩上屋敷跡と江戸城周辺を散策しました。

びらグルメの誰かが、一度は歩いているので方向が危ないヒナやお鈴さんにはいい状況です(笑 

         平河天満宮

前日まで痛かった膝が朝から痛みがなく、結構歩いたのに今朝も痛みがないのは、美味しい物を頂いて、楽しい仲間と好きな江戸話が出来たので、急に回復している??^_^/







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Author:日向ぼっ子
小千住生まれ、大千住育ち 江戸が大好きなおきゃんな中年増で~す。
江戸文化歴史検定1級取得


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