江戸の大名モグラにもなる?!
前回、江戸文化歴史検定の話をしましたが、TVで検定の話をみました。マニアックな検定が結構あるので驚きましたよ。江戸検もマニアックかも知れませんけどね。
秀吉に恩顧があった藤堂高虎が、江戸城築城の縄張りをしたことに日和見な奴と思っていたら、面白い話を見つけました。 高虎大坂冬の陣で家康方に付いていた高虎は、敵のスパイと見られていました。水軍の将 九鬼長門守が捕らえた曲者が高虎宛の秀頼からの密書を持っていたからです。密書を見た家康は、曲者と密書を高虎の陣地へ送り込んで高虎の真偽を確かめようとしましたよ。高虎は、曲者の額に焼鏝で「犬」背中に「秀頼」と印し大坂方へ送り返し、それをきっかけに、その日の合戦が始まりました。 前面の敵は真田幸村、幸村が作った本城の前の真田丸へ加賀の前田利常、徳川四天王の井伊直孝、家康の孫 越前の忠直がぶつかって行きますが、越前勢の横に陣取った高虎には出陣の命がありません。 布陣幸村優勢だが、家康からは何の連絡もなく有力大名が手柄を立てていることに、足止めを食った高虎は焦ったのですね。 幸村軍師の兵庫が高虎へ「武田家滅亡のときに甲州の金掘りを多く召抱えました。金掘りに大坂城内まで穴を掘らせて、城の下に爆薬をし掛け爆破するのです」と進言しましたよ。このモグラ戦法、毛利家の秘法で石見銀山の金掘りを使って50年前に城攻めに使っていたのです。 元就陣地から城まで12,3町(1.4km位)10日もあれば掘ることが出来るというので高虎陣営は掘り進めます。ところが進む内に数千匹のカエルが冬眠を破られ土中で大合戦をして、時ならぬカエルの声で肝を冷やしたりしながら、あとわずかの時に大坂方から和議の申し入れがあり、高虎の作戦は日を見ることなくポシャッてしまったのですね。(お気の毒に!) このモグラ戦法掘り方は、空砲を鳴らして掘る音を消したのですが、防御方は城中に瓶を伏せておくと土を掘る音が響くので距離や方向が判ったそうです。そんな場合の城方は、逆に掘り進んで行き穴の中で鉢合わせ、真っ暗な中で切り結んだと「軍法極秘伝書」に書かれていますよ。 高虎「武士たるもの七度主君を変えねば武士とは言えぬ」が信条だったとか。 |
江戸の町案内をタクシーに?!
先週末、恵比寿のお蕎麦屋さんで会社を退職する人のお疲れ様会が催された。蕎麦屋で一杯は江戸時代からの雰囲気と店の造りも古いので好きなことの一つです。
![]() 「どちらへ」というタクシーの運転手さんに「江戸へ」と応えて、驚かせた運転手さん相手に江戸の町の話しながら帰って来ましたよー 平賀源内がキャッチコピーを書いた鰻は、お城の築城頃 江戸城の前の沼地で獲れた鰻をぶつ切りにして串で刺し焼いて味噌をつけて、人夫が食べていたのです。その形が蒲の穂に似ていたので蒲焼、江戸風から江戸前になったといわれていますよ。 「塩が切れれば米なきよりもくたびれるものなり」と家康は戦場へ大豆味噌(八丁味噌)を団子にして持参していました。味噌は戦場への必需品、醤油は江戸の初期は上方の製品。 天皇がいる処へ上京、江戸へは下向、上方から来る品物を珍重して下り物、江戸近郊で作られたものは下らないもの、価値がないもの「くだらない」 ![]() 太田道灌が京都で後花園天皇に住まいの質問をされた時「吾が庵(いお)は松原つづき海近く富士の高嶺を軒端にぞ見る」と応えた江戸城近辺は風光明媚な処。そこに幕府を開いた家康の意図は? 秀吉が家康に「小田原城を居城に使うつもりか」尋ねると「将来はともかく当分は在城に」と応えると「それは見当違い、小田原より20里ばかり先の江戸が将来性があるから、そこを居城に」といったとか。 中世の城は、鎌倉のように守りが堅固が一番重要、近世の城は政治・経済上からも抑えになる地を良とする先見の明が秀吉にあったというより、都より遠い地を勧めただけだったのでしょうね。 ![]() ![]() 今秋の第7回江戸文化歴史検定の案内が来ました。お題は「徳川将軍15代〜最高統治者の個性で読み解く264年〜」例えばこんな問題が 「臣従儀礼としての参勤交代制度で大名として参勤したことがある将軍は?」 い)家宣 ろ)吉宗 は)家定 に)慶喜 「歴代将軍で将棋愛好家で象棋攷格を著した将軍は?」 い)秀忠 ろ)家継 は)家治 に)家慶 退職して時間が出来た方、自分が住んでいる東京の歴史を知るのはいかがですか?自分の存在も継続されて来た過去があるからですものね。 *答:ろ)は) |
江戸の国学も「日本書紀」を読み解く?!
先日の古書市で購入した、天皇の支配を「日本書紀」から読み解く「天皇家はなぜ続いたのか」と昭和史に於ける天皇の「昭和天皇伝説」を読みましたよ。
「日本書紀」の神話部分は、藤原不比等と持統天皇の陰謀で天武系天皇を抹殺・隠蔽した部分だとする仮説から、古代史を探り「日本書紀」を読み解いています。 神武天皇2人の著者は、天皇の不可侵性とは何か、権力でない権威としての王権であったが故に千数百年の間、神聖な王家という幻想を人々は持ち続けることが出来たと、それぞれの時代から描いています。 7世紀以前 日本の王家は「大王(オオキミ)」と呼ばれ、律令の法体系以降 精神の象徴として「天皇」という呼称に変ったというのです。7世紀以降の高松塚古墳の天上に描かれた北斗七星、聖徳太子の刀に刻まれた北斗七星は、宇宙の中心 北極星をめぐることから天神がこれに乗り宇宙を駆巡る車であるとし、北極星が宇宙の中心であり神格化され、宇宙の最高神として「天皇大帝」というものが誕生したというのが道教思想だというのですね。 神功皇后昭和史に於いて戦前 天皇は立憲君主の立場を貫き、大戦の終結と2・26事件だけ意思を表したが、戦争を容認した背景には抑えることが出来ない軍部の台頭があり、抑え込めばより残虐な形で暴発する怖れがあると思ったというのです。 この国の時代の権力者は天皇の権威を利用し、人心を掌握してきた歴史があると偶然にも2人の著者は書いています。 武内宿禰昭和天皇の1歳下の秩父宮は食事に1時間も掛かる兄を「鈍行馬車」と呼んだことがあり、秩父宮自身は俊敏で豪気であったというのですが、家光と忠長のような兄弟だと思いましたよ。江戸でも国学者の本居宣長、平田篤胤も、日本書紀を読み解いていたのです。 違う観点から考察しているのですが、大御心から「すべてを知ろし召す」「豊葦原瑞穂国」を思う存在だとというのです。 大御心や恋心ではなく人を思う心は、合い通じることがあるのでしょうか?ニューオータニのお客様から別れてから気になって居たのですとご連絡を頂きました。私も「一期一会」と思いつゝ気に掛かっていたのです^^ |
江戸の守りは螺旋状?!
GWの最終日は巨大な竜巻が大きな被害をもたらしました。ここ数年異常気象が続いていますね。理科系のことを何でも知っているブロ友の昭ちゃんは「北極振動による寒気の南下、偏西風の蛇行といろいろな要因がありますよ」と教えてくれました。
平安時代なら このような天変地異を、菅原道真や崇徳天皇の怨霊の祟りであったとか、江戸の人なら黒船が来たからだと思ったでしょうね。 平河天満宮江戸城に菅原道真公が残したものは、梅林坂がありますよ。太田道灌が午睡で見た霊夢の翌日 菅公の親筆を得たことで、梅樹数百株を植え天満宮を勧請したのです。家康が入府後 天満宮は平川門外に移り平河天満宮となっています。 江戸城の守りは直線状の高石垣というイメージですが、桜田門の西側は土塁で東側は石垣です。家康が「帝都(西側)の方は味方地の義なるに其方へ向ひての要害というは無益の義也」と石垣は築かずに土塁にしたというのです。鉢巻土塁です。 ![]() 桜田壕今昔 江戸城の守りは大手門から「のノ字」を描くように枡形の見附門が造られています。36見附門といわれていますが食違門は、道が食違いになっているのを利用して櫓門しか立っていませんでした。現在はS字カーブです。 赤坂見附は少し中に入り「のノ字」カーブからはずれていますが、赤坂は地名から台地と低地が入り組んだ地形で、井伊直孝は直線状の溜池池畔に築くことを、土井利勝は地盤の強固な台地に築くことを主張しました。 赤坂見附結果 赤坂御門の枡形は台地の崖際に築かれることになり、秀忠は家光に将軍職を譲るとき「天下とともに土井利勝を譲る」といいましたよ。利勝は参勤交代の制度を武家諸法度に組み込んだ敏腕政治家です。 五街道の出発地点は日本橋ですが、到着地点は甲州街道を除いて全て伝馬町になるのですよ。甲州街道だけが直線で江戸城に通じていました。将軍が江戸城を捨てるときの逃げ道なのですね。 四谷見附服部半蔵率いる伊賀衆が警備した半蔵門から四谷大木戸、大久保百人衆、八王子千人同心が将軍を守り、甲州城へ逃げるルートを確保していたのです。甲州城は幕末、新撰組が甲州鎮撫を名目に勝海舟に江戸から追いやられましたね。 家康が造った江戸の守りは、直線で攻めて来る鉄砲を螺旋状の守りで撹乱していたのですね。外郭の距離4里四方は、当時の大砲が御城には届かない距離だったというのです。 |
江戸のガイド経験?!
ホテルニューオータニが主催する 手塚治虫の「陽だまりの樹」をモチーフにしたツアーガイドをやりました。
![]() 今までニューオータニのガイドは2期の方がされていたのですが、今回は2期の方の都合がつかず5期に話がありました。 どの様なものか判らないので、5期で江戸博ガイド、シティガイドをやっている2名の方にお願いしました。私は、トールさんと組んでサブの立場でしたが、メインが出来ないときに替りが出来ないと困るので、この3週間猛勉強をしました。基礎知識があるので、1級の受験勉強よりスムーズに内容を把握することが出来ましたよ。 ![]() ルートは、食違門→赤坂見附をバスの中から説明。桜ガ井は広重の浮世絵と名所図会の絵を拡大して見て頂きました。桜田門の変と枡形を説明。バスへの道すがら私は鉢巻土塁と石垣の違いを数名の方に解説ました。江戸城は大手門から平川門へ歩き、十思公園、お玉が池、玄武館跡を3時間半かけて巡りました。 メインのトールさんはガイド慣れしているので、場所ごとに要領を得た明解なものでした。私は少し詳しくエピソードを交えて、お客様に説明しました。前日 参加され面白かったからと再度参加された方もいましたよ。 ![]() トールさんにはヒナさんのガイドは詳しすぎると言われましたが、江戸検1級がガイドすると冠されているので、石垣や江戸城内のエピソードをお話しすると興味を持って貰えたり、松の廊下の刃傷を歌舞伎のストーリで理解されていたりと知識にバラツキがあり、一般的ガイドだけではなくプラスαを望んで参加されていたように思いましたし、1級仲間の筋右衛門さんも自前で1級の解説を見るために参加されていました。 最後に、説明に一番厳しいご意見を持っていた高齢の女性から握手を求められたことが、うれしかったですよー |

























