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日向ぼっ子の大江戸散歩

現代のルーツ江戸を学んで今を探る

外国人の見た日本女性?!

師走になり気温の変動が激しいですね。先日眼科の定期検査で、ドライアイで目に傷があるとの診断、1週間後の再診で完治したのですが、乾燥の影響が弱い所に出てしまいますよー

先日 スポーツジムのロッカーであいさつ程度の人に 「久しぶりね」 と声を掛けたら、彼女は溢れるように夫と姑からのDVの様子を喋り出しました。親しく話したことなどないヒナに話したのは、彼女の中に抑えきれないものがあったのでしょう。

公的機関に相談することを勧めると、公的機関の弱者に対する不甲斐なく頼りない対応を聞かされ、更に驚きました。

          信長 信長

日本の女性は昔から虐げられて来たのでしょうか?

戦国時代の永禄6年(1563)ポルトガル人の宣教師 ルイス・フロイスが来日しました。フロイスは織田信長と親しく交わり、日本に関する著作を多く残しています。

           フロイス フロイス

『ヨーロッパ文化と日本文化』 で、ヨーロッパと日本の違いを男・女・子供・僧侶など細かく著わしています。

当時の女性を比較します。

ヨーロッパの女性は、美しく整った眉を重んじる。日本の女性は一本の毛も残さないように、全部毛抜きで抜いてしまう。
ヨーロッパの女性は歯を白くするために、手を尽くし手段を講ずる。日本の女性は鉄と酢を用いて黒くするように努める。

ヨーロッパでは夫が前、妻が後になって歩く、日本では夫が後、妻が前を歩く。
ヨーロッパでは財産は夫婦で共有であるが、日本では各人が自分の分を所有している。時には妻が夫に高利で貸し付ける。武家の女性は婚姻の際に親元から、化粧料などの名目で所領を与えられていたのですよ。

ヨーロッパでは、妻を離別するのは罪悪で最大の不名誉。日本では意のままに幾人でも離別する。妻はそのことによって名誉も失わないし、妻から離別もでき再婚も出来る。

ヨーロッパでは、未婚の女性の最高の栄誉と貴さは純潔が犯されない貞操である。日本の女性は処女の純潔を重んじない。名誉も失わなければ、結婚も出来る。

ヨーロッパでは、妻は夫の許可なく家から外へ出ない。日本の女性は夫に知らせず好きな所へ行く自由を持っている。

ヨーロッパ人から見ると戦国期の女性は、縛られることなく自由を持っていたのでしょうね。何処か現代に通じることがあります。

DVを受けている彼女はアルバイト料からジムの料金を払い、夫と姑の目を盗んで30分程息抜きにジムに来るそうです。頼る両親も亡くなり、シングルマザーでは子供を大学へ行かせることは不可能なので、小学生の子供のことを考えて今は耐えていると割り切ったように話していました。







お座敷遊び?!

12月になり忘年会シーズン、昨日の江戸あいとの忘年会は、筋右衛門さん発案で、芸者さんを呼んでお座敷遊びをしましたよ。

    坂福  黒塀通り

芸者さんと話すのははじめてのこと、地方(じかた)のまどかさんは、歴史的なことをよくご存じで歴史を交えて三味線や芸者の話してくれました。首振り三年から始まる修行とか。
立方(たちかた)の成華さんは、気配り良くさりげなくお客に合わせます。

踊り  踊り1

地方の三味線で、立方がお江戸日本橋・奴さんを踊ります。

踊りを見せてくれた後は、お客もお姐さんの御指名で踊りましたよ。

踊り2 踊り3 踊り5

初めに忠さん、如才なく踊りをこなします。黒ちゃんの仕草は、お姐さんより色っぽい??
最後に、腰痛のお鈴さんとヒナがお姐さんに合わせます。

その後 三味線を分解して、説明をしてくれました。中竿の竿は三分割に出来、皮は猫で従来のもの、犬の皮を使った三味線もあるとか。

糸は絹糸にウコンで撚った物、ツメや撥は象牙からプラスチックに代わっていて、猫も昔は捕獲してと云われていたのですが、それ用に養殖されているというのですね。

お会計は芸者さんへの花代を加えて、結構お酒も頂いて、安いのに驚きましたよ。

提案した筋右衛門さんからは、安いから計画したとのことでした。す~さんは 「世の男性の気持ちが少し分かった」 と。

以寧墓所  松姫
 千人同心組頭 並木以寧の墓所          松姫墓所 

その後千人同心の町八王子を少し歩きました。

江戸学の権威 三田村鳶魚の墓所と武田信玄の娘松姫の墓所をお参りしました。

今年の江戸あいとは、ご府内から江戸周辺の散策と美味しい物を頂き、大満足の忘年会で今年を締めました^^





欧米に追い付け~?!

野球の長嶋さんが大学を卒業する時に、英語の単位が取れなくて追試を受けたそうです。

教授とのマンツーマンで 「I live in Tokyo」 の過去形はとの質問に、長嶋さんは暫し考えて 「I live in 江戸」 と答えたとか。

季節が変わるのが早く、平成もあと半年だとメディアは騒ぎ出して来ました。

明治になって一世一元制となり、天皇の在位中は元号を変えないと決めました。

江戸時代の元号は慶長から慶応までで36の元号がありました。吉凶によって改元されていたのですね。

          明治天皇 明治天皇

江戸が東京に変わって、明治5年(1872)9月新橋・横浜間の鉄道の開業式が催され、明治天皇は新橋から横浜まで汽車に乗りましたよ。

翌明治6年3月 22歳の天皇は、断髪します。朝 出掛ける時には髪を結い、帰って来た時に断髪だったので、女官たちが驚いたという記録が残っています。

因みに、岩倉具視は遣欧使節団として日本を発つときに丁髷・和装姿でしたが、アメリカのメディアが自分を取り上げるのが奇妙な格好だと知ると、断髪したという話もありますね。

明治6年の12月17日に宮内庁から天皇が食肉されると公式に発表されました。

          天武天皇 天武天皇

動物の殺生が禁じられている仏教の教えから天武天皇は、農耕期間である4月から9月の間、牛・馬・犬・サル・鶏を食することを禁止します。

牛は田畑を耕す、馬は人を乗せて働く、犬は番犬となる、鶏は時を知らせる、猿は人間に似ているからだというのです。

鹿と猪は江戸時代は、薬喰いと云われて庶民は食べていました。

          広重山クジラ

享保13年(1728)8代将軍 吉宗は、外国産馬を輸入した時にインド産の白牛も3頭輸入し、幕府直轄の嶺岡牧と云われた牧場で繁殖を始めました。

「白牛酪」 というバターのような乳製品が作られ、滋養強壮や解熱用の薬として将軍家に献上されていました。

嶺岡牧は戦国時代に安房の国主 里見氏が軍馬を養成する牧場として利用し、江戸時代になると幕府直轄になったのです。

古事記や日本書紀には、古代から役牛として牛がいたことが書かれていて、貴族が牛乳を飲んでいたというのですが、武家社会になるとそのような習慣もなくなったそうです。

明治時代になると富国強兵策から、天皇を利用したりして欧米のものを取り入れますが、徳川幕府は公家や薩長のような田舎の下級武士では知り得ないようなことを、かなり以前から掴んでいたので先進的だったのでは。

寒くなるとすき焼きとか、鍋料理が良いですねぇ。






千度参り?!

天明2年(1782)から続く飢饉により民衆が疲弊をしていた天明7年(1787)6月、京都御所の周り約1.3Kmを廻る一人の人がいました。

日が経つと廻る人は増え、3日目には1万人以上の人が廻るようになり、10日後には7万人もの人々が廻るようになります。

「天子様」 お助けをと御所の南門にお賽銭を投げ入れ、神仏に願掛けをするように御所の周りを歩き廻りました。

          後桜町天皇 後桜町天皇

後桜町上皇は3万個のりんご(りんごが日本に渡来したのは平安時代)を人々に配り、公家たちもお茶や握り飯を配給しましたよ。

これは 「千度参り」 と云い、天明2年から起きていた30万人から50万人が餓死をしたとされる天明の飢饉での民衆の天皇への直訴でした。

都の人々だけでなく近郊や大坂から集まって来た人々を見て、光格天皇は幕府に対して 「民が苦しんでいる、なんとかせよ」 と書付を送ります。

これは幕府に対して大変なことをしたのです。

家康が定めた  「禁中並びに公家諸法度」 の違反で、廃位されかねないことだったのです

結果として、幕府は救恤政策を実行して米1500俵を放出し、天皇への咎めはありませんでした。

           光格天皇 光格天皇

光格天皇は 「無私の心で天下万民の幸福を祈る」 という伝統的な天皇のやるべきことから、法度を破ってでも幕府に抗議をしたのですね。

光格天皇は、新井白石が提言した皇位継承の安定のために創設された閑院宮家の出身で、先帝の後桃園天皇が22歳で急逝し、皇子のいなかったことから、閑院宮家の6男だった祐宮が幼くして天皇になったのです。

傍系からの天皇であったために、朝廷や幕府の中では光格天皇を軽んじる向きがあり、それを案じた先々代の後桜町院は天皇に学問を熱心にすることを勧め、天皇も期待に応えたのです。

光格天皇は新嘗祭を古来の形式に戻したり、朝廷の儀式や儀礼を再興したのですね。

更に、52代嵯峨天皇のときから天皇号を 「院」 と呼称し、63代冷泉院のときに天皇号は完全に使われなくなっていたのですが、光格天皇崩御に際し約900年ぶりに天皇号が復活します。

光格天皇は偉大な英主として偲ばれ、朝廷で天皇号を追贈することを決定し、幕府が従ったのでした。

           松平定信 松平定信

光格天皇は、実父の閑院宮典仁親王に太上天皇の尊号を贈ろうとしますが、松平定信ら幕府の反対で断念をすることになり、定信との間に確執が生じます。

天明の飢饉での天皇優位の立場から光格天皇は、将軍家斉との協調関係を利用して、定信を罷免に追いやることになるのです。

現在の皇室は光格天皇の血筋で、この後 仁孝・孝明・明治・大正・昭和の天皇から今上天皇へと継承されています。





奸雄を援けた奸!?

岩倉具視が玉松操と出会うことがなかったら、明治維新は成し得なかったかもしれない。

岩倉は、死ぬ前に肥後の井上毅に 「予が死ねば玉松操の名は歴史から消え去るであろう。今その物語をするゆえ、書き記して後の世の語り継ぎにせよ」 と云ったのですね。

「玉松操は、一の偉丈夫なりき、平生、声色(せいしょく)を近づけず、酒肉を嗜まず、書を読むを楽しみとし、夙(つと)に神武復古の説を抱けり、たまたま公(岩倉具視)に知られて、蟄居の一室を貸し与へ起居を共にし、画策する所あらしめらる。

          岩倉具視

公は玉松の功を推して 『己の初年の事業は、皆彼の力なり』 とまでたまへり、薨去の前年に、一夕、殊更に予を召して玉松の履歴を語りたまひ、其人の績(いさを)空しなせそ、書き記して後の世の語り継ぎの料とせよ。と慇懃に仰せられけり」 と井上は書いています。

岩倉は和宮降嫁に尽力し孝明天皇からの信任もあったのですが、尊攘派から命を狙われ、天皇の信任も失い洛中を追放となり岩倉村での蟄居生活を送ることになりました。

玉松も公家出身でしたが次男であったために出家します。僧侶の堕落が許せず、手厳しく堕落僧を攻撃し僧侶らから嫌われ孤立して、天保10年(1839)に還俗をしました。その後 諸国を流浪し、国学を学ぶことになります。

慶応2年(1866)の秋頃に50歳を過ぎた玉松は、琵琶湖の西岸に辿り着き住むようになります。

読み書きを子供たちに教えるようになると、村人は衣食を賄い公家出の玉松を 「御所さん」 と呼ぶようになるのですね。

岩倉村に退隠して6年後、岩倉は佐幕から討幕に転じ、薩摩藩が密かに支援するようになっていました。

岩倉は度胸と謀の才はあったが、型にはまった学問を嫌っていた為に、朝廷や公家を動かす名文を作ることが出来ず困っていました。

岩倉と玉松を結びつけたのは、近江の尊王攘夷派の三上兵部でした。三上の申し出を断り続けていた玉松でしたが、岩倉の玉松への遇し方に起居を共にすることになるのですよ。

           錦旗

岩倉は薩長への討幕の詔勅があれば討幕が出来ると考え、玉松に詔勅を作らせ、明治天皇の祖父 中山忠能を抱き込み、御璽を押印させることを玉松に提案します。

玉松は 「それだけでは負けるな、もっと大きな戦力になるものを忘れている」 と応えます。「どういう手か」 と尋ねると 「薩長軍に錦旗を持たせることだ」 と応えるのですね。

玉松は詔勅を書き 『承久兵乱記』 『梅松論』 『太平記』 の記述から錦旗を創作しました。

国学者の玉松が岩倉に協力する条件は、討幕が成ったら 「攘夷の決行」でしたが、岩倉は薩摩の 「討幕開国」 の藩論に同化していたのです。

錦旗の存在が討幕を成し遂げ、明治維新を成功させたが、玉松が望んだ攘夷とは反対の欧化政策へと進んで行きます。

玉松は 「我、奸雄ノ為二售(はか)ラレタリ」 と一言残し明治政府を去りました。

その後の消息を知る者は誰もいないそうです。





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Author:日向ぼっ子
小千住生まれ、大千住育ち 江戸が大好きなおきゃんな中年増で~す。
江戸文化歴史検定1級取得


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