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日向ぼっ子の大江戸散歩

現代のルーツ江戸を学んで今を探る

朝鮮の歴史?!

朝鮮半島の歴史を知らないので、関連本を読んでいましたよ。朝鮮の事大主義は現代も続 いていて、日本は夷狄であると認識されているようですね。夷狄とは、野蛮な民族ということです。

        朝鮮属国史

朝鮮半島は古代の新羅・高句麗・百済の三国時代の後に、統一新羅・後三国・高麗・李氏朝鮮と続き、李氏朝鮮が大韓帝国となり滅亡すると日本統治があり、太平洋戦争後 米国・ソ連の統治から南北に分かれる歴史がありました。

古代から中国に冊封され、属国になることには抵抗を感じていないのですが、大韓帝国時代の30余年蛮族である日本に統治されたことは、許し難いのですねぇ。

        朝鮮半島の歴史

李氏朝鮮時代500年の内、漢民族の明国には服従しますが、女真族(満州人)の清国に対しては夷狄のため抵抗します。

朱子学信奉上、野蛮人の女真族が華夷秩序の中心にある明の後継者となることは認められないものでしたが、戦いに敗れた李氏朝鮮王は、清の皇帝に対する臣下として屈辱的な 「三跪九叩頭の礼」 (号令と共に土下座と起立を三度繰り返すお辞儀) をします。

態度では服従であっても、思想では 「中華文明は明と共に滅びたが、朝鮮が中華文明の正統な後継にならなければ」 となります。

中国が唐の時代 朝鮮半島では、高句麗・新羅・百済が覇権を争っていました。

新羅は唐に救援を頼み高句麗・百済を滅ぼしますが、その代わりとして唐の衣冠礼服制度・官制を取り入れ、新羅独自の年号も唐の年号とし、名前の姓も朝鮮では2文字だったものを唐風の1文字に改め、唐に朝貢し臣従します。

唐の皇帝が李姓だったことから、新羅の貴族・豪族は李を名乗る者が多くいたといわれていますが、この時代から名前は中国風になるのですね。

高麗時代にはモンゴルの元王朝対して、日本を攻めるべきとフビライに進言したというのです。

朝鮮半島はやせた土地で貧弱であったために、中国への貢物が慢性的に不足し不足分として若い娘を貢女として、5世紀から中国の高官に差し出していたのです。

         韓国「反日フェイク」の病理学 著者は韓国人、北朝鮮を疑っている箇所が興味深い

1991年まで慰安婦問題は注目されませんでした。それまで慰安婦とは、米軍慰安婦のことを指していました。この問題を提起したのは、吉田清治と朝日新聞でした。

日本軍での慰安所は朝鮮人が経営していたとの朝鮮人の証言もあります。慰安所を営業したことに、同胞朝鮮人は 「恥」 という認識を持っていたというのです。

当初は朝鮮の風俗街で募集をし応募者が減少すると、農村の娘に甘言して誘ったというのですが、日本の女衒と同じですね。

徴用工は、内地に憧れ自ら働く意識で、日本に来たというのです。

徴用工の炭鉱労働者は月に1回繁華街の遊廓で遊ぶのですが、その遊廓には日本人遊女と朝鮮からの出稼ぎ遊女が居たというのです。労働者には、日本女性でも朝鮮女性でも自由に選ぶこと出来たのです。

強制労働者に遊興を与えるのでしょうか?況してや、支配者側の日本女性を相手にさせるのでしょうか。

この時代の売春行為を歴史的観点から見た場合には、咎めてはいけません。戦前の貧しさの中で金銭を稼ぐ方法であり、戦後は朝鮮戦争の特需まで、パンパンといわれた彼女たちが外貨を一番稼いでいたのです。

1941年の朝鮮の毎日新報によると、日本で稼いだ労働者は、大卒の初任給が80円の時代に、月120円を稼ぎ平均貯金額は237円で、再契約をした者が63名中33名いるという記事がありました。彼らは本当に強制労働だったのでしょうか?

朝鮮半島に流れている事大主義・小中華思想と被害者意識を誇張する歴史は、この先変わるのか、変わらずに時代が過ぎるのか。






知らない国々?!

敗戦から74回目の夏になりましたね。8月に入ると急に戦争関連のTV番組が増えますが、先日観たのは、91歳の台湾兵でした。

インパール作戦に従軍し、3万の兵の内60%が餓死と病死で、歩けない者は銃で顔を撃って自死をしたというのです。

ニューギニアへ従軍した台湾兵は、輸送船が途中で撃沈され食料が届かなかったことで、多くの者が餓死で亡くなった。その後オーストラリアの捕虜収容所に送られ、そこでは200名以上の日本兵が脱走を試みて、銃で撃たれて亡くなった。

東条が主導したとされる戦陣訓の 「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」 が影響したと台湾兵は云います。彼らは 「私は日本人だ」 と日本語で語るのですよ。

        韓国を蝕む儒教の怨念

台湾と韓国の日本への違いは何なのかと思い、韓国人が書いた 『韓国を蝕む儒教の怨念』 を読んでみました。著者呉善花氏は韓国で反日教育を受け、日本に留学して1998年に日本に帰化をしています。

呉氏は李朝から受継ぐ儒教思想が、現代でも続いていると云います。

「小を以て大に使うる者はその国を保んず」 の孟子の言葉から小国は大国に礼をもって仕えるべきである、という事大主義が根底あると云うのですね。

世界の中心、文化の中心にある中華に近い朝鮮半島は優秀で、より遠い日本は侵略的で野蛮な、文化的に劣っている華夷思想が今でも続いているそうですよ。

更に、家族・親族・血縁を最優先に守ることが人間だという考えから、民族は一つの家族とされ、国が批判されると強い反感の情が湧き起こるのだそうです。

明治に来日したイザベラバードは朝鮮にも行っており、その紀行文に 「朝鮮人は耳に入れたことを嘘と誇張で潤色する」 と書き、日本人については正直者と書いていますが、朝鮮では 「騙される方が悪い」 という通念が今でも残っていることから、歴史の偽造・改竄に罪の意識もないというのです。

この本に書かれていることから、日本人の考え方とは違うことが判りますが、日本に近い朝鮮半島や台湾のことを今まで知らなかったと痛感しました。

戦争末期 小学生が疎開したのは、将来の兵力の温存であったとTVではいっていましたが、兵力の温存に加えて、本土決戦時に女性や子供に爆弾を背負わせて、敵兵への特攻とする話もあったことを思い出しました。

「玉音放送の日は玉砂利の上もそんなに暑くはなかったのね」 のメールを読んで、焦土と化した東京とあの戦争は何だったのかと、74年目の夏を迎えまた考えてしまいました。







三国志展?!

7月は古い友人達に会う機会が数回あったのですが、8月ほど暑くなかったので出掛けるのは苦ではなかったですね。8月2日の夕方のみ観覧出来る国立博物館の 「三国志」 展のチケットを頂いたので、出掛けた時は夕刻なのにとても暑くって驚きましたよー

国立博物館 国立博物館本館

三国志は中国古代の魏・蜀・呉の戦乱の時代で、各国の出土品を見ることが出来ました。

三国志を読んでないので詳しいことは知りませんが、魏の曹操、蜀の関羽・諸葛亮(孔明)の名前と 『魏志倭人伝』 の中に東夷伝として倭国のことが書かれていたこと位しか知りません。

     関羽 関羽

この時代の倭国は群雄割拠の卑弥呼の時代で、邪馬台国が何処にあったのかも判然としていませんが、中国の発展が凄かったと出土品を見て感じました。

 金印 偏将軍印 
             金印                 偏将軍印章の刻印

倭国には文字もなかった時代に、亀の持ち手の金印とか、黄金の帯金具の装飾品や硬貨があったのですね。

卑弥呼は魏に朝貢して 「親魏倭王」 の称号を貰ったといわれています。

書としての三国志は、平安初期には日本に入って来て、江戸時代になると漢詩の題材として三国志の人物が好まれたようです。

諸葛亮が 「王佐の才(王の補佐)」 を有するか否かで儒学者 鵜飼石斎は肯定し、伊藤仁斎は否定したとされています。

       銅鏡 銅鏡

三国志には大衆的な読み物としての 三国志を基にして逸話や作者の創作が含まれる 『三国志演義』 がありますが、江戸時代は演義が多く読まれていたようで、林羅山も読了し家康の駿府文庫にも所蔵されていたようです。

2009年に河南省で曹操の陵墓が発見されました。1800年前の頭蓋骨と顎の一部と石枕が残っていたそうですよ。

       呉の虎石棺座 呉の虎石棺座

調べると50代から60代の頭蓋骨で、曹操のものだとされました。曹操は66歳で没しています。

曹操は頭脳明晰で兵法が 「千変万化の如く神の如し」 といわれ、姦雄ともいわれたのですね。曹操が姦雄とされたのは、演義での悪人扱いがあったからかも知れません。

曹操の墓で発見された石枕は、曹操が頭痛持ちで石枕で痛みを抑えていたのではないかとの説もあります。

三国志展は9月16日までで、金・土は夜9時まで開催されていますので、日が落ちて涼しい頃に見に行くのも良いかも知れません。






町年寄?!

昨日は八朔でしたが、天正15年(1590)8月1日に家康が江戸に入国した日として、江戸幕府は正月に次ぐ祝日としていました。吉原遊廓では、花魁が白い衣装を着て道中をしましたよ。

          家康

江戸の町が造られて行く中で、家康の命を受け実質的に町の支配の役割をしていたのが、町年寄といわれた奈良屋・樽屋・喜多村の3家でした。何故この3家が、町年寄という地位を得たのでしょうね。

奈良屋市右衛門は、天正10年(1585)の本能寺の変のときに、安土での茶会の後 堺見物をしていた家康に供をしていたのです。

江戸の町割りが完了すると奈良屋市右衛門は、本町1丁目に180坪の土地を拝領します。堺見物に一緒に従っていた後藤庄三郎光次も、江戸で金座を命じられ、奈良屋の隣に拝領屋敷を賜っています。

          駿河町 広重 駿河町

樽屋藤左衛門忠元の祖父は三河刈谷の城主 水野右衛門太夫忠政で、家康の生母 於大の父なのです。忠元の父と家康は従兄弟同士ということですねぇ。

忠元の父康忠は、家康の負け戦 三方ヶ原の戦いで武田信玄の家臣を12人討ち取り、水野弥吉康忠の名前を首の数から三四郎康忠と改めるよう命じられます。十二人から三四とは、江戸的洒落ですよね。

三四郎は長篠の合戦で信長に酒樽を献上し、信玄の家臣を討ち取った話を聞いた信長から 「樽三四郎の働きか」 と賞賛されたことから樽三四郎と呼ばれるようになります。

三四郎は遠州の町々の支配と桝支配を命じられますが、天正10年に亡くなり子供だった嫡子の忠元は、知行地を返上して桝支配のみを勤めていましたが、家康の江戸入国に伴い町の支配を命じられたのです。

只、武士から町人になった理由が不明でなので、三四郎が家康の勘気を受け牢人になり、茶屋四郎次郎が推挙したという説もあります。

樽屋は本町2丁目に160坪の屋敷地を拝領しました。

         駿河町1 広重 駿河町

喜多村の初代 弥兵衛文五郎は、家康が家臣にするというのを断って町人になりたいと願ったというのです。

馬の飼料の調達を命じられますが、関八州の連雀商人を統制する札座も兼ねていました。喜多村は本町3丁目に160坪を与えられました。

初期の江戸を担う人材には、面白い人が多いですねぇ。






一瞬の美?!

土曜日は隅田川の花火大会なのに、台風が来るかもといわれていますね。

           花火2

千住の花火は雨に降られませんでしたが、ここ数年は以前のような華やかな花火ではなく、朱や赤が多いので江戸時代の花火かしらと感じますよー

享保17年(1732)5月27日 「川施餓鬼」 を目的に両国の川開きで、花火店 鍵屋は厄払いを祈って花火を打ち上げました。

これは、8代将軍 吉宗が挙行した 「水神祭」 で、悪疫退散と死者の慰霊のためで、前年に西日本を襲った蝗害が、餓死や疫病の蔓延で多くの死者を出していたからです。

花火5 花火4 

その後5月28日の両国の川開きで、花火が上げられるのが恒例になったようですね。

しかし、両国の花火は天和3年(1683)には既にあったようで、戸田茂睡が 『紫の一本(ひともと)』 に 「『天下一 あつちゃあ、あつちゃあ』 と誉むるもあり。ここかしこにて立て上ぐれば、ただ日中のごとくなるに、玉火の出づる筒音、流星の上がる響き、人のわめく声にて、心静かに漕ぐ舟なし」 と記しています。

幕府は夏頃になると、花火の取り締まりに関する触(ふれ)を繰り返し出していますよ。

江戸城曲輪の近くや、火薬庫のあった千駄ヶ谷焔硝蔵の近くでは厳禁とされ 「大川口ニ而は格別之事」 とされていました。

        花火6

花火店は鍵屋と鍵屋から暖簾分けされた玉屋が請け負っていて、玉屋が上流、鍵屋が下流で互いに技を競い合っていました。

ある年 玉屋の舟に打ち上げた花火が落ちて、積み込んだ花火が残らず燃え出し、舟の者は川に飛び込んだのですが、玉屋の息子は泳げずに溺死してしまったそうです。

玉屋は天保14年(1843) 12代将軍 家慶が日光社参のときに、出火し半町ほどの町並みを焼失したために、闕所・所払いとなり廃業します。

「橋の上 たまや、たまやの声ばかり なぜに鍵屋いわぬ ジョウ(情と錠)なし」 と狂歌に詠われ 「昔より花火を誉むるには玉屋と云ひし。今かぎやの花火を誉むるにも矢張りたまやと呼ぶ」 と『わすれのこり』 にも記されていて、花火の掛け声は 「たまや」 が多かったようですね。

           花火3

柳橋の芸者衆は川開き客を嫌って、この日は素人娘のような姿をして根岸辺りに遊び、涼風の静かな閑散を愛したそうです。

花火の一瞬のかがやきが、好きなのですけどね。






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Author:日向ぼっ子
小千住生まれ、大千住育ち 江戸が大好きなおきゃんな中年増で~す。
江戸文化歴史検定1級取得


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