日向ぼっ子の大江戸散歩

現代のルーツ江戸を学んで今を探る

お七もアツかろが、日差しも暑~い?!

昨日はびらグルメで、天保7年(1836)創業の京急立会川にある蕎麦処 「吉田屋」 の蕎麦会席ランチに行きましたよ。このお店には、品川勤務の時から行って見たいと思っていて、今年の1月にミニグルメで行く予定が、ヒナは腰痛で行くことが出来なかったのですね。

   鈴ヶ森1  鈴ヶ森2

南千住の小塚原には刑場跡がないので、鈴ヶ森の刑場跡を見るために、大森海岸駅から立会川へ歩いてみました。刑場者を回向していた大経寺の前に刑場跡の碑等があります。

鈴ヶ森刑場の開設は慶安4年(1651)で、当初は寺の堂宇も建立されたようですが、台風などで建物を失い、文久2年(1862)に刑場に隣接する百姓小屋に本尊を安置し、密かに刑場者の供養をしたことが、記録としてははっきりとしたもののようです。

      貼り付け台石      火あぶり台石
磔台石 真中の穴に角柱を立て上部で縛る  火炙台石 真中に鉄柱を立て足下に薪を積む      

御朱印を頂いたときに、怒り顔の住職らしき人に 「髭題目ですね」 と言うと、ふくれっ面で 「日蓮宗だからね!」 こちらもちょっと意地悪く 「不受不施ですか?!」 と聞くと 「江戸時代はね!!明治以降に岡山から来たのさ」 と強い口調だけど応えてくれました。

    首洗い井戸 首洗い井戸 中を覗くとオドロオドロ感が伝わる

ビルの上に鎮座している浜川神社を見上げ、大石が二つ柵に囲われた古びた海運稲荷神社を参拝し、土地の鎮守だった天祖諏訪神社から、立会川に架かる刑死者との別れの涙橋(浜川橋)を渡って、立会川駅前の龍馬像を見てから吉田屋へ行きましたよ。

昨日は夏日で1時間15分ほど歩いて、汗が噴き出て来ます。ヒナの後ろから遊山さんと筋右衛門さんが来て、筋右衛門さんはヒナと同じ道筋を歩いて来たとのことです。

    先附  煮物

蕎麦会席は先付からお造り、煮物、天ぷらと季節が感じられ、十割蕎麦を堪能して、とろけるようなわらび餅のデザートまで、美味しい物でした。

江戸話や先日 沖縄に関するギーガさんのメールから沖縄の歴史など盛りだくさんな話で、盛り上がった2時間でしたね。

その後は、浜川砲台を経て、山内容堂の墓所と江戸時代紅葉の名所海妟寺を散策。

容堂の墓所は荒れ果てていて、お鈴さんが可哀そうと子孫に憤っています。

海妟寺へ行く前に芭蕉像が安置されている泊舩寺へ。芭蕉像が見られるか聞いてみると、檀家さんかその関係者以外には見せられないとの事。

    春嶽墓所1 越前松平家墓所

言い伝えでは何かの折に泊舩寺を離れた芭蕉像が 「泊舩寺に戻りたい」 と言って戻って来た像だとか。逸話もおかしな伝わり方を防ぐため門外不出なので、詳細はなし。

泊舩寺を出ると旧仙台坂の表示、信号を渡って海妟寺へ。

案内役の若旦那が松平春嶽と岩倉具視の墓所へは行けないと、墓所の入り口には立ち入り禁止の札がありましたよー

裏手から覗けるのではと、裏手に回って小さな土手を登って、見えた~

     岩倉墓所 岩倉(具視)家墓所

倒れた葵紋の石灯籠があったので春嶽の墓、反対側の明神鳥居が岩倉家の墓かしらと江戸好きは、マニアック過ぎでしょ!!

今日のメイン終了後は、奥平家の墓所がある清光院へ行った頃には、暑さですっかり疲れてしまいました。奥平家の墓所には、江戸検取得後に直ぐに行ったのですが、知識が増えた現在とは見方が違うのですね。

ビールを求めて大崎まで20分が遠~いこと。

今回も美味しい物を頂いて、大笑いと好きな江戸話で盛り上がったランチ散策を堪能しました *^_^*





殿は冒険がお好き?!

幕末の四賢侯といわれ、政治総裁職だった松平慶永(春嶽)は、明治19年(1886)還暦のときに、妾腹に男子が生まれます。春嶽は出産を喜び、5男でしたが自分の幼名 錦之丞と名付けます。

      松平春嶽 春嶽

錦之丞が3歳の時に父春嶽は亡くなり、その後生母に育てられ、明治25年(1892)に学習院初等科に入学しますが、1年生で落第してしまいます。臆病で、柔弱で成績不良だったからなのか、学習初等科教師の家に預けられました。

紀尾井町の長屋が多い地域だったので、長屋の子たちと遊ぶ内に、逞しくなって行きます。明治の中期では、紀尾井町に長屋があったことが判りますね。

20歳の時に尾張徳川家の長女と見合いをしますが、入り婿を嫌い断ります。

すると井上馨に 「越前松平の5男より尾張徳川家の当主の方が活躍の舞台が大きい、君は徳川の人間だから徳川の為に尽くせ」 と諭され、婿入りを承諾します。

名前を錦之丞から義親に改め、婚約から2年後養父の義禮(よしあきら)が亡くなり、家督相続と侯爵を襲爵します。

この年 学習院高等科を最劣等で卒業すると、帝国大学文学部史学科に入学します。

      徳川義親 義親

さすが、徳川の殿様は歴史が好きかと思ったら、歴史に興味あったのではなく、無試験で入学出来たので、史学科を選んだのですよ。現在も無試験なら入学したいなぁー^^; 

学業は劣等生の義親ですが、子供のころに読んだ 『十五少年漂流記』 きっかけに探検に憧れていました。

尾張徳川家が士族授産のために、開墾していた北海道に行ったときには熊狩りをし
マレー・ジャワ旅行では、虎狩りをして 「虎狩りの殿様」 と云われました。

理容業界の組合から 「虎狩り」 と 「虎刈り」 をかけて会長就任を打診され、承諾したとの逸話があります。

明治43年(1910)に 「名古屋開府300年紀念大祭」 で、家宝の什器を展覧して好評を博します。これが後に徳川美術館設立のきっかけとなりました。

理財には長けていたようで、歴代藩主の墓を掘り起こし、遺体を火葬して納骨堂に納め、土地を活用します。

「家を縮小すれば財産の大部分は失ふけれども、同時に心も軽くなる」 と義親は言っています。

戦前の未遂に終わったクーデター計画3月事件では、手元の金塊を処分して20万円を援助をします。当時1円が現代の3,000円位だったので、6億円ほどですね。

義親は戦前は右翼と関り、戦後は社会党を支援し社会党顧問や日ソ交流協会の会長になっています。

徳川家には、多種多彩な人物が居たものですね^^





兄弟の風説?!

三代将軍家光の母 お江は、家光より1歳半下の弟 忠長を可愛がっていました。

徳川家臣は、家光派と忠長派に分かれて、愚鈍な家光より利発な忠長になびく者が増えることに、家光の乳母お福(春日局)は危機感を覚え、駿府の家康に直訴をして、家康が秀忠とお江の前で、将軍継嗣は家光であるとの宣言は有名な話ですねぇ。

母のお江は、色白で利発な忠長を溺愛し、血色が悪く、自分になつかず、吃音の為に口を利くことが少ない家光を、疎んじたと書き残されています。

寛永3年(1626)に、お江が亡くなります。

その後しばらくは父秀忠を介して、家光と忠長は良好な関係を築いていたようです。

寛永5年(1628)9月忠長は、母の死を悼んで崇源院の霊廟を作っています。

この廟は現在 目黒の祐天寺に安置されていますが、当時 忠長は母の3回忌に芝 増上寺宛に 「(幕府に無断で)駿府に母親の霊廟を造るよう命じたので、(増上寺での)三回忌の法会に参会できなくなった」 と手紙を書き送っています。

この廟は長く家康の為のものと思われていたのですが、2008年に修復の時に屋根組みの柱に 「寛永五年(1628) 建立 宗源院様御玉家」 と記されたものが見つかっています。

廟は、高さ2.38m、幅2.1m、奥行き1.35mで、金箔を使い、極彩色の外観で、内部には極楽をイメージした蓮華や飛天が描かれ、外装は蓮華の文様や逆蓮(ぎゃくれん)の彫刻が施された、かなり大きなものです。

        崇源院廟 崇源院廟

2011年に江戸博の 「江~姫たちの戦国」 展に展示されていましたよ。

結局 忠長は父秀忠亡き後、家光によって自刃させられることになりますね。

明治34年(1901)に皇后は、日嗣の御子を生み、翌35年には弟宮が誕生しました。

この兄弟もまた兄が愚鈍で、弟が利発であったといわれています。

母である皇后が、二人に欲しい物を訊ねると、兄は欲しい物がなければ 「何もない」 と応え、弟はなくても母を喜ばす物を望むというところがあったようです。

母皇后は、自分と同じ生まれ月日で性格の似ていた弟宮を偏愛するほど可愛がっていたというのです。

後に弟宮は食事に1時間も掛ける兄に対して 「鈍行馬車」 と陰口を云っていました。

        崇源院1

昭和6年(1931)に一部の将校が目指した軍事政権樹立の際に、将校たちは天皇を弟宮に交代させるクーデターを計画したり、弟宮は天皇に 「憲法を停止して天皇親政」 を提言したりします。

2.26事件の時には、弟宮が青年将校と協同歩調を取ろうとしたといわれています。

弟宮は昭和13年(1938)から15年間結核を患い亡くなります。

敗戦から9日後 弟宮は療養先の御殿場から突然上京して、マスコミに 「私の病気はほとんどよくなった」 と発表します。

この時、天皇の進退は決まっておらず、皇太子も未だ11歳だったので、戦争責任を問われ天皇が退位することがあれば、摂政を置くことになるという考えはあったのかも知れませんね。

家光と忠長は異母兄弟説がありますが、同じように天皇と弟宮には異父兄弟説や双子説など、兄弟が不仲になると色々な風説が広まるものです。







幻の共和国?!

GWで何処へ行っても人、人、人ですねぇ。銀座へ会社の女子3人でランチに行きました。

友人が選んでくれた場所は、三笠会館のイタリアン。美味しい物を頂いた後は、中央通りの松坂屋後に先月オープンした 「GINZA SIX」 を覗いて見ました。

鱸 フィットチーネ

屋上庭園へのエレベーターは上下とも並んで順番待ち、屋上には人工的庭園が広がっています。木々や草花が未だ馴染んでいないので、人口感一杯です。

新しい建物や格安店も出来た銀座は様変わりして、若い頃のイメージからドンドンかけ離れて行きますよー

屋上庭園1 屋上庭園

今日は憲法記念日で70年の今年は、いつもの年より憲法に関する報道が多いですね。

1946年1月GHQは突然、伊豆大島に日本からの独立を命じます。驚いたのは大島の住民でした。

日本を離れて独立国を作ることに不安を感じながら、6ヶ村の村長が何をすべきか議論をする中で、元村村長の柳瀬善之助は憲法の制定を提案します。

    屋内 中央吹抜けの造りは、30年前のシンガポー
                             ルのショッピングセンターのようです


大島の当時の人口は1万人程、独立を命じられてから2ヶ月で 「主権島民、万邦和平」 を柱とする憲法を作成しますが、それから2日後GHQは 「行政分離解除」 として、独立することは無くなりました。

大島の憲法は、議会を中心に執行委員会を設け、島民がそれらを見守る共和制を謳っていました。

戦争中 大島は本土防衛の拠点とされており、急な独立は米国領とすることだったのか、意味する処は不明です。

     稲荷 屋上の靍護稲荷大明神

日本憲法はGHQからの押し付けといわれますが、近衛文麿はGHQから憲法作成を命じられ、草案をGHQに提出しますが、GHQから一蹴されてしまいます。

近衛は憲法草案を命じられた時、自分は軍事裁判を免れたと安堵したという話もあります。近衛文麿の祖は藤原氏北家 藤原房前で、3度総理大臣になりました。

1945年12月 近衛は巣鴨拘置所への出頭を命じられた明け方に、青酸カリで服毒自殺をします。

同じ頃 憲法学者 鈴木安蔵を中心に7人の学者によって 「憲法研究会」 が作られ、1945年12月草案をGHQと日本政府に送り届けます。日本政府は全く反応しませんでしたが、GHQは草案の一部改訂で使えるのではないかと絶賛します。

只、女性の人権に関して希薄だったようで、GHQは独自の日本憲法作成のために極秘に25人の米国人を集めます。

人権問題に関わったのは、オーストラリア生まれのユダヤ人で、戦前に日本に居住し、15歳で米国へ留学したベアテ・シロタという女性です。

ベアテは日本女性の地位の低さを引き上げる24条を起草しようとしますが、日本政府とGHQのすり合わせの段階で、日本政府は日本には合わないと大議論となります。

ベアテの上司がそれを制し 「個人の尊厳と両性の本質的平等」 は起草されることになりました。

憲法研究会の中心であった鈴木安蔵は、戦中は軍に迎合した書を数冊著したことに負い目を感じ、戦後は自分を正すが如く、憲法作成に心血を注いだと家族は告白しています。

護憲か改憲かと憲法について国民投票のとき、一時の風潮に流されることなく、政府や政党、マスコミの扇動に惑わされず、憲法を理解して判断が出来るのか?? 

自信を持って投票できますか。





3代目の役割は?!

先週 池袋の古本市へ行って来ましたよ。重い物を持つと腰に良くないので、極力本の購入は抑えようと思っても、本を見ると手が伸び~る^^; 

      古本市

江戸の本に交じって、山本七平の 『昭和天皇の研究』 と 元憲兵著 『軍閥』 を購入。
山本七平の著書は、はじめてです。

現在 北の3代目が私たちに不安を与えていますが、3代目について、七平が書いています

「売り家と 唐様で書く 三代目」 という江戸時代の川柳がありますね。

初代が財産を作り、2代目が堅持したものを3代目になると食いつくし家を売りに出すようになるが、その売り家札の筆跡は遊び人らしく唐様 でしゃれている、と皮肉った川柳です。

七平は3代目の問題点は、初代以来の功臣との二つの関係であると言います。一つは功臣に対する主君の態度、二つ目は若き主君に対する功臣の気持ちですよ。

       家光 家光
        
3代目は 「位負け」 を感じる創業時からの功臣を遠ざけ、自分に都合が良いイエスマンを集めたがるというのです。家康から3代目の家光は、家康・秀忠に仕えた酒井雅楽頭(忠世)の家の前を、顔そむけて通るほど嫌っていました。

ある時 父秀忠から 「東照神君からの旧臣、気に入らないのは御身の我意、天下を治める者は我意はならぬ」 と厳しく諭されます。

昭和天皇もまた、武家政権から天皇親政体制に代わって、明治天皇から3代目ですね。

昭和天皇は学習院初等科終了後に東宮御学問所に於いて、7年間5人の学友と共に、選ばれた師に学びます。この頃の先生は、江戸時代末に生まれていますね。

昭和天皇の師となり、天皇の自己形成に大きな影響を与えたのは、杉浦重剛で安政元年(1855)近江膳所藩の儒者の次男に生まれています。重剛は緒方洪庵や伊藤玄朴に学び、蕃書調所に務めた経歴の人物です。

重剛は昭和天皇に 「守勢の難しさ」 を説き 「我意を捨てること」 を話します。

二つ目の創業時の功臣の態度は、若き当主に対して奉る風を装い、内心では馬鹿にしているのですね。天皇は昭和元年に25歳、終戦時は44歳でした。

        昭和天皇

家光は諸侯に対して 「生まれながらの将軍」 と宣言し 「不満なものは国に戻り戦の準備をせよ」 と言い渡し、勇気を示します。

昭和天皇を最も無視したのは、陸軍でした。天皇を 「玉」 「錦旗」 と表現し物扱いをしていたというのですが、これと同じことを幕末薩長が、孝明天皇・明治天皇対して抱いていた気持ちです。特に長州は 「玉」 を手に入れるべく、禁門の変を起こしています。

昭和天皇を玉としてロボット扱いをしたのが、2.26事件の青年将校で 「君側の奸」 を排除すれば天皇を操れると判断しますが、天皇自身が 「速やかに暴徒を鎮圧せよ」 と指示します。

天皇の君主としての志は 「立憲君主制で、『君臨すれども統治せず』」でした。

後に天皇は立憲君主の道を踏み外したのは 「2.26事件と終戦の聖断」 と 『昭和天皇独白録』 で語っています。

天皇は終戦後マッカーサーを訪ね 「You may hang me」 と言い 「どうか日本国民を飢えさせないで欲しい」 と。

では、昭和天皇は戦争を止めさせることが出来なかったのか?が、ヒナの疑問でした。

更に、家光と昭和天皇の共通点が、母のお江と貞明皇后、弟の忠長と秩父宮にもあったのですよ^^







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Author:日向ぼっ子
小千住生まれ、大千住育ち 江戸が大好きなおきゃんな中年増で~す。
江戸文化歴史検定1級取得


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