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日向ぼっ子の大江戸散歩

現代のルーツ江戸を学んで今を探る

人命救助?!

行方不明だった2歳の男児が、ボランティアの男性に発見されて、良かったです。発見者の方は、65歳で鮮魚店の職をやめてから10年以上ボランティア活動している方なのですね。

戦中の人助けで有名なのは、杉原千畝がユダヤ人にビザを発行して、リトアニアからシベリア経由で第三国へ逃がした話があります。映画にもなりましたねぇ。

           杉原千畝  杉原千畝

千畝は、昭和15年(1940)7月から8月にかけて日本からの訓令に反して、ユダヤ人6000人に対してビザを発給し避難民を救いました。

それより2年前にユダヤ人を救った日本兵がいましたよ。昭和13年(1938)ユダヤ人18名がソ連経由で、満州の国境沿いにあったシベリア鉄道のオトポール駅まで逃げて来ました。

ハルピン陸軍特務機関長だった樋口季一郎は、食事・衣類を配給し上海租界への移動の手配し、脱出させました。

その後 ユダヤ人の間では、「ヒグチルート」 といわれ、上海・米国・カナダ・南米への脱出ルートとなります。

1933年から1939年までにドイツを脱出したユダヤ人は、25万人から30万人と云われていて、ソ連から満州経由のヒグチルートを使ったのは2万人ともいわれていますね。

この件は日独間で問題になり、関東軍総参謀長だった東条英機に呼び出されます。

            樋口季一郎 樋口季一郎

季一郎は上官だった東条に 「ヒトラーのお先棒を担いで弱い者いじめをすることは正しいと思いますか?」 と発言します。東条はこの言葉に理解を示し、ドイツからの抗議に対して 「人道上の配慮によって行った」 と一蹴したのでした。

この時代ヨーロッパでは、国を持たないユダヤ人は嫌悪される存在であり、ヒトラーは反ユダヤ主義の政策を掲げていましたねぇ。

戦後 季一郎は東京裁判でソ連からA級戦犯として引き渡し要求がありました。

玉音放送後の昭和20年(1945)8月18日以降 占守島(しゅむしゅとう)・樺太のソ連軍への戦闘を指揮したことで、ソ連から戦犯とされました。

占守島は、カムチャッカ半島の直ぐ手前の島ですが、元禄御国絵図では 「しいもし」 と記録されており、正徳5年(1715)松前藩主は幕府に対して 「北海道本島・樺太・千島列島・勘察加(カムチャッカ)」 は、松前藩領と報告していました。

安政元年(1855)日露和親条約により一旦ロシア領とされますが、明治8年(1855)樺太・千島交換条約によって日本領となり、ロシアとの国境警備の最前線となっていたのです。

昭和18年(1943)のキスカ島撤退時にも、季一郎は大本営の決裁を仰がずに在留軍に対し独断で、小銃などの武器の海中投棄を指示して、乗船時間を短縮し無血撤退の成功に貢献していました。

ユダヤ人コミュニティでは、ユダヤ人の金満家によるロビー活動を展開し、世界的規模で季一郎救出運動が起こり、マッカーサーはソ連からの引き渡し要求を拒否して、季一郎を保護し戦犯を免れることになったのです。

季一郎は、千畝と共にユダヤ民族に貢献した人々が名前を刻まれる 「ゴールデンブック」 に記載され、日本イスラエル協会から名誉評議員の称号を贈られたのでした。

 




手榴弾ではなくボールを?!

二刀流で活躍しているオオタニサ~ンは、肘を痛めて投球はお休み中ですが、戦前 「懸河のドロップ」 を投げていたのは沢村栄治でした。懸河のドロップとは、落差があり早い球だそうですよ。

           沢村栄治

沢村は昭和11年(1936)に出来た職業野球の巨人軍の投手ですが、3度召集令状を貰い、3度目にレイテ島への輸送中に米軍の攻撃を受け戦死してしまいます。

享年27歳、最初の召集令状は20歳の時、2度目の戦地からの帰還後は投球の切れは失われ、別人のようだったいわれていますね。

昭和18年になると野球の開催中に突然 「〇〇さん、召集令状が来ましたので、直ちに家に帰って下さい」 と場内放送がありました。これは娯楽を利用した軍のアピールでした。

学徒出陣をした人は 「我々は2銭の命だった」 と言っています。当時の招集葉書の値段が2銭だったことからです。

学徒兵の中には 「特に危険を伴う任務である」 といわれ特攻へ配属されたという。 「一発で死ぬのが楽」 と思い 「死にたくない」 は禁句だったと、90歳を過ぎた学徒兵の生き残りの方は語りました。

陸海軍は日米戦の始まる前年から学徒出陣を検討していていて、理系の学生に比較して、文系の学生が多く徴兵されました。

特攻は海軍では回天、陸軍では航空機突撃の神風特攻隊が有名ですが、陸軍には 「マルレ」 というベニヤ板で作られた船で敵艦に突っ込むものも造られていましたよ。

          マルレ震洋

特攻兵の中には、夜、銃を咥えて自死した者が居たそうです。残った者は 「自死して楽になって羨ましい」 と思ったというのです。

彼らは 「恵まれた者が、大きな責任を持つ」 という学生であることが恵まれた者であり、自己犠牲を称賛する教育を受けていたのですね。

遺書の一つに 「権力主義・全体主義は一時栄えても必ず滅びる」 と綴っていた人もいました。

          終戦の日

特攻は若者でなく、ジイさんが行けばよいのに、提唱した者が戦後まで生き延びたことに憤りを覚えます。

何故無謀な戦争をしたのか、日本側の要因だけでなく米英ソの思惑も絡んでいたし、指導者が東条英機でなく、石原莞爾や永田鉄山であれば戦局を変えられたか、あの時代での戦争を回避できたのではと、歴史の 「イフ」 を考えてしまいます。

沢村は 「手榴弾を投げるのではなくボールを投げたかった。銃を持つのではなくバットを持ちたかった」 のではないかと桑田真澄は言いました。

73年目の夏はあのときより暑い日が続いています。





老害?!

毎日々々暑いの言葉しか出て来ませんよー

今度はアマチュアボクシングの老害発覚ですねぇ。権力を持つと死ぬまで離したくなくるのでしょうか。言い訳を聞いていると、いい歳して情けないし、晩節を汚しっぱなしですよね。

江戸時代の老害話を探してみましたよ。

          吉宗 吉宗

8代将軍吉宗に仕えた水野忠之は、吉宗の享保の改革で勝手方(財務)担当の老中として、13年間辣腕を振るいました。

忠之は吉宗の人材登用や政治改革を、孫の忠辰(ただとき)に語り、上に立つ者のあり方を教えました。

忠辰は幼い時から読書好きで、学問を良くしていましたので、祖父の教えに感銘を受けたのです。忠辰は、14歳で岡崎6万石6代目藩主となりました。

忠辰が19歳になった寛保2年(1742)岡崎に、初めて国許入りをしました。岡崎藩水野家は、幕府の要職に就くことが多いので、財政が逼迫していましたよ。

忠辰は国許に於いて、自ら木綿の衣服や食費を1日100文以内として、質素倹約な生活で財政再建に成功します。その成功に自信を持った忠辰は、藩政の改革に取り組みます。

人材登用は家格ではなく、能力で昇進させ要職に就けました。更に、年貢を減免して百姓からも信頼を得たのですが、保守派の老家老たちの妨害に遭います。

寛延2年(1749)頃には、家老や旧守派は結託して登城を拒み政務を滞らせたりして、改革の妨害をします。忠辰の改革は、道半ば頓挫してしまいました。

政務に嫌気がさした忠辰は、憂さ晴しに酒色に耽るようになり、見かねた母の順性院は放蕩三昧の忠辰の不行跡を諫めるために、宝暦元年(1751)自害をします。

2か月後 母の墓参に行くために表座敷に出た所、側近によって座敷牢に閉じ込められてしまいました。宝暦2年(1752)3月には、忠辰は発狂して隠居と届けられ、同族の婿養子 忠任(ただとう)が家督を継ぐことになりました。

忠辰は、宝暦3年(1753)8月29歳で座敷牢で憤死しますが、毒殺説もあるようです。

一部の家臣たちが支配した水野家は、10年後唐津への移封を申し渡されます。

            水野忠邦 水野忠邦

文化14年(1817)忠辰から5代あとに藩主となった忠邦は、猟官運動が功を奏して浜松への転封を実現させ、のちに老中となり天保の改革をすることになります。

権力を得た者は、改革を好まず、イエスマンばかりを側に置くことになるのは、大小の組織に関わらず、いつの世でも変わらないようです。






怪談と花火?!

今夏は夜になっても涼しくなりませんねぇ。土曜日は白石加代子さんの一人朗読芝居 「牡丹灯籠」 を見て来ましたよ。
      
    白石加代子 白石加代子1

原作は明治の落語家三遊亭圓朝ですが、一般的には 「カランコロン」 とぽっくりの音も高らかに、お露が恋人新三郎を訪ねるシーンが有名ですね。

これには続きがあって、幽霊封じの護符を百両で剥がした下働きの伴蔵夫婦が、百両を元手に栗橋宿で大店を構えます。そこへお露の父親の後妻が不義をした男とやって来てと・・・。

最後は伴蔵夫婦と後妻と不義の男の殺し合いで 「そして誰もいなくなった」 となってしまうのです。

     花火7

江戸の浄瑠璃・歌舞伎、明治の圓朝落語は、一人の主人公の物語でなくそれを取り巻く人々の行く末まで描くので面白いですよね。一つの物語を幾重にも楽しめる盛沢山なお芝居です。

それを白石さんは一人で演じ切るのですが、女優の力量があるので素晴らしい作品になっています。この 「牡丹灯籠」 も彼女が演じた百物語の再演です。

      花火6 花火1

因みに江戸時代の百物語は、数人で怪談話を一つ話す毎に、隣室のろうそくを消しに行き、九十九話で話止めとしますよ。百話は話すと・・・。夏には結構流行った暑気払いでした。

      花火3 花火4

夜は足立の花火で、最近は川辺に行かずに家の近くから見ているからか、以前に比べて花火の規模や色の華やかさが消えているような気がします。

夜もジトっと暑さが身体に纏わりついて、幽霊で涼しくなりたい今年の夏ですよー^^;






海舟と西郷?!

先日の海の日に墨田区役所で開催された 「勝海舟フォーラム」 に友人に誘われたので、行って見ましたよ。毎年海の日に開催されているとのことで、今年は15回目でした。

     海舟像

海舟の玄孫のフリーライター高山みな子氏が基調講演され、その後 西郷隆盛の曾孫の西郷吉太郎氏との対談が1時間ほど行われました。

      看板

海舟も西郷も坂本龍馬と並んで、幕末では好かれている人物ですねぇ。

海舟と西郷との友情は、海舟が西南戦争での西郷の死を惜しんで造立した 「留魂祠」 の設置場所の移転からも伺い知ることが出来ます。

当初 葛飾の四ツ木薬妙寺境内に置かれたものを海舟の遺言により、海舟夫妻の墓の隣に移転されています。

      勝と西郷

子孫なので先祖を悪く云うことはないのですが、江戸の薩摩藩邸襲撃を行った庄内藩に対して、戊辰戦争に於ける庄内藩への処遇が西郷の取り成しで寛大であったと話します。

庄内藩が薩摩藩邸を襲撃した理由は、西郷が益満久之助らを使い、幕府を挑発するために江戸で放火や略奪を指示したことは話さないのですね。

      勝玄孫    西郷吉太郎

征韓論についても、西郷の考えは、国防のために隣国と結束して欧米諸国に立ち向かうことだったと云うのですが・・・。

江戸城無血開城は、海舟と西郷の子孫は二人の尽力だと讃え合うのです。

江戸城無血開城はイギリス公使パークスが西郷を呼び出し、新政府軍に対して抗議したという説があり、西郷はパークスの抗議を、攻撃中止の大義名分にしたのではないかという説もあります。

子孫の歴史観は、やはり先祖に偏ってしまうのですよね。







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Author:日向ぼっ子
小千住生まれ、大千住育ち 江戸が大好きなおきゃんな中年増で~す。
江戸文化歴史検定1級取得


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