日向ぼっ子の大江戸散歩

現代のルーツ江戸を学んで今を探る

西郷どんの影響は今も?!

北朝鮮の非核化の費用は日韓が負担する?それに対して非核化の初期準備金があると応え、G7では太平洋ゴミの地球環境問題の協定書に日米がサインをしない。

日本は米国に追従し過ぎ、戦後70年以上経っても日本は、未だに米国の占領下にあるのではないかと思えてしまいますねぇ。

戦争を起こした軍人の責任は、大きいなぁと・・・。軍部の暴走は、負けることが分かっていた米国と戦争し、その原因は日露戦争だと云われていますが・・・。

         日本海海戦 日本海海戦へ向かう

日露戦争は明治維新から37年後に大国露西亜を相手に起こした戦争で、薄氷を踏む思いで勝利したものでしたが、日本人の多くはそう思ってはいませんでした。

この戦争のために政府は国民に重税を課し、外国からも巨額の借金をしていたので、戦後も税金を取り続けなければならなかったために、「勝った」 ことを吹聴しなければならなかったというのですね。

伊藤博文は戦争が始まると金子堅太郎を米国に派遣して、露西亜との終戦時の仲介のロビー活動をさせます。日本海海戦に勝利したところで、米国のセオドアルーズベルト大統領が講和勧告を行いました。

            伊藤 伊藤博文

日本政府は日露戦争では終戦の処理を考えていたのですが、太平洋戦争では全く考えていませんでした。

昭和20年(1945)になってソ連に仲介工作しようとしますが、ソ連は米英とヤルタ会談で日ソ不可侵条約を廃棄することを約束していたのですから、仲介なんかしてくれるはずがありません。

太平洋戦争での軍部の暴走は、日露戦争より前の西南戦争が原因だともいわれています。

西南戦争では、政府は大阪まで出て来て下関との間を通信で繋ぎ、政府に許可を得て戦場の軍隊を動かしていましたよ。

政府軍の参謀だった山縣有朋は、それが大変な手間で面倒だったことから西南戦争後に、軍隊の指揮権だけは政府から外すように主張しました。所謂シビリアンコントロールを山縣は、嫌がったのですね。

政府の大久保利通や伊藤らは 「そんなことをしたら軍隊が独走して、国家の中に自分たちの国家を作るかもしれない。そんな危ないことはダメだ」 と反対しました。

            山県有朋 山縣有朋

山縣は言葉巧みに 「そんなことはしない、俺たちは仲間ではないか」 と国家の制度を決めるのに、心情に訴えたのですね。ちょっと待ってよ山縣さん、貴方は大正11年(1922)に死んでしまうのですよー

西南戦争の翌年大久保利通が暗殺されると、シビリアンコントロールを外し軍は独立して天皇の直属組織になり、帷幄上奏権(いあくじょうそうけん)を手に入れてしまいました。

シビリアンコントロールを外したのはプロセイン(ドイツ)方式で、英・仏軍では許可されていません。シビリアンコントロールを外したドイツは、第一次世界大戦で軍が暴走したことも敗因の一つだといわれています。

帷幄上奏権とは明治憲法に於ける大元帥の天皇に対して、参謀長が直接軍略を上奏し許可を貰うことが出来る権利です。

山縣はシビリアンコントロールをなくし、軍隊を思い通りに動かせる権限を手に入れることで、政府を取り仕切っていた伊藤と張り合ったというのですね。

山縣は長州藩士といっていますが、伊藤より低い身分で、足軽より下の中間の家柄から のし上がったので、武士階級を嫉み権力欲が強いといわれています。

            西郷像上野  

西南戦争で薩摩の主要な人たちが戦死し、西南戦争の翌年には大久保も暗殺されると、残ったのが伊藤や山縣の長州勢だったのですねぇ。伊藤は大久保に可愛がられ、山縣は西郷を慕っていたともいわれています。

討幕から150年 近代のはじまりから、この国の礎から間違っていたのかも。
西郷や大久保、木戸孝允らが、あと10年生きていれば近代は違う形になったかと、歴史のイフを考えてしまいます。

現首相は祖父を尊敬しているようですが、その祖父は米国が使い勝手が良さそうなので、首相になった人と云われ、財務相の祖父も又米国にしっぽを振っていたのよねぇ。






新撰組聖地 日野宿?!

昨日は真夏を思わせる暑さの中、江戸あいとは日野でお寿司を頂き、幕末の世界に浸りましたよ。日野駅からタクシーで行った日野鮨では、マグロとサーモンのネタが二個分の大きさでした^-^/ 久しぶりにお寿司だけの江戸ランチを男性三人は、御酒と共に愉しんでました

         お寿司

ヒナは日野は二度目ですが、日野は新撰組の聖地、八坂神社には 「天然理心流」奉納額の看板が明記されています。

         奉納額

現在の本殿の内に、寛政12年(1800)に建立された本殿には、中国の故事からの牡丹・鯉・龍などの浮彫りや透かし彫りが華麗に彫られています。

         寛政期の社

新撰組のスポンサー佐藤彦五郎は日野宿の名主で、土方歳三とは従兄弟なのですが、歳三の姉ノブの夫ですね。現在残存の日野本陣は、幕末の元治元年(1864)に完成したものです。

          本陣2

玄関の間に飾られた額は 「乃武乃文(すなわちぶ すなわちぶん)」 は、妻ノブに掛けて書かれていますね。

          本陣

本陣から新撰組六番隊組長 井上源三郎の墓所がある宝泉寺へ。源三郎は八王子千人同心の三男に生まれ、天然理心流では近藤勇の兄弟子でした。

池田屋事件で尊王攘夷派の捕縛に活躍しますが、鳥羽伏見で戦死しました。甥が源三郎の首を持ち帰ろうとしますが、重かったために戦場近くの寺に首と刀を埋葬したといわれています。

日野駅に戻るとお鈴さんが腰痛で帰宅し、私たちはバスに乗り高幡不動尊へ行きましたよ。

矜羯羅童子(こんがらどうじ)像と制吒迦童子(せいたかどうじ)像を左右に従えた不動明王坐像は、他では見ない立派なものですね。

外に出ると平田篤胤の著書 仙境異聞 『勝五郎再生記聞』 の生まれ変わり話の勝五郎の墓所があります。

ヒナはこの話が好きで、三回ほど読んでいるのでこの墓所が見られただけでも、うれしかった。日野から高幡不動へ移動するときに、高幡不動に何があるの?なんて不満気だったのに。

    木刀 
   歳三使用の木刀 下段の木刀の削れは稽古の結果なのか?
    
歳三の墓は生家近くの高幡不動の末寺の一つ石田寺にあり、高幡不動は土方家の菩提寺です。

最近は明治史観が偏重されているという傾向から、吉田松陰なども暴徒とする意見もある中で、幕府方の土方歳三などは若い女性からの支持も多いですねぇ。






寅さんは香具師?!

公文書の改ざんや嘘をついても法に問われることがないし、追及できない情けない野党。
アメフト問題で嘘と断定したことは、世間から共感を得たのではないか、この国は嘘がまかり通るようになったのでしょうかねぇ。

今回のアメフト問題で年配の当事者は、誰でも簡単にスマホで動画が撮れて、SNSで拡散されることを解っていなかったのではないかなぁー。

スポーツジムで21歳の若者が自撮りで、彼女に花束を渡した動画を見せられた時に、現代の若者ってこんな風に自撮りするのだと、ちょっと驚きましたよー

ここ数年スマホの普及で、誰でも簡単に何処にいてもインターネットを使えることが、凄い速さで世の中の変化に起きているのですね。

           闇市 闇市

世の中の急激な変化は、戦争が終わったときにありました。東京はほとんどの町が灰燼に帰し、ホテルは進駐して来た米軍に接収され、多くの人々は駅や地下道、ガード下で雨露を凌いでいたといわれています。

都会で食べ物を得ることが出来ないので、農家に買出しに行ったり、都市近郊の農民もサツマイモなどを背負って、新橋・上野・池袋や新宿などの駅頭で売ったというのです。

兵隊は日本軍が隠匿していた膨大な物資、乾パンや缶詰・軍靴を兵営から持ち出し、進駐軍からは洋酒・タバコ・缶詰・石鹸など横流しされていたというのですね。

昭和20年(1945)9月に、新橋駅でリックに物資を背負い売り歩いた立ち売りが居たといわれています。

ターミナル駅の周辺は、建物疎開で空き地になっていたので、そこに闇市といわれた青空市が開かれたというのですね。

引揚者や復員兵は闇市で得た品物で一日を生き延び、あくる日はその商いを仕事にして金銭を得たのです。

ここに目を付けたのが戦前から露天商を営んでいたテキヤで、自分たちの出番だと闇市を仕切るようになったのです。

            神農 神農

テキヤの歴史は、中国の神農という薬の神を結束の柱として 「香具師」 と表記し、「コウグシ」 といわれ、江戸のころから 「ヤシ」 と読むようになったそうです。明治以降に香具師は、「的屋(テキヤ)」 といわれるようになるのですね。

寛政の改革の頃に香具師の危機がありましたよ。

香具師は露店で薬種を売るのが本業で、人寄せのために口上や蛇使いなどをしていたが、乞胸支配のからくり・講釈・浄瑠璃・物まね・説教などと重なるので、乞胸支配下にすると云われます。

            寅さん 寅さんは香具師

香具師は浅草寺境内に露店を出していて、浅草寺では他の支配にある者は一切置くことが出来ないという決まりがありました。

香具師はそれを不服として浅草寺に願い出ます。浅草寺は願いを受け入れ、寺社奉行に訴えるのですが、寛政の改革後に漸く、承認されました。

香具師の仕事は昔から 「香具・売薬・愛嬌見世物」 としての自負があったようですね。
将軍が浅草寺に御成のとき、境内で膏薬や歯磨きを売っていた松井源水の曲独楽を、上覧されました。

敗戦後の急激な変化は、闇市だけにとどまらず鬼畜米英に手のひら返しで媚び、それは現代まで続いているのでは。






矜持を失くした奴ら?!

今話題の大学は、長州藩の山田顕義が明治22年創設した日本法律学校を前身としているのですね。

明治以降の山田の経歴はかなり優秀なものですが、幕末には松下村塾で吉田松陰に学び、大村益次郎から兵法を学んでいます。西郷隆盛から 「あの小童、用兵の天才でごわす」 と言わしめたといわれています。
       
           山田顕義 山田顕義

岩倉使節団に加わり欧米を視察した時に、ナポレオン法典に出会い 「法律は軍事に優先する」 と確信したというのです。

その創始者の精神とはかけ離れたルール無視を教唆した者が学校を運営して、その権力者が若者の未来を奪い取ろうとしていることに憤りますよ。

歴史から若者を潰す卑劣な行為を考えた時に、即座に浮かんだのが大西滝次郎でした。

         大西滝次郎 大西滝次郎

大西は 「日本を救い得るのは30歳以下の若者である。彼らの体当たりの精神と実行が日本を救う。現実の作戦指導も政治もこれを基礎にするべきである」 と特攻隊を編成するときに語っていました。

「会津藩が敗れたとき、白虎隊が出たではないか。ひとつの藩の最期でもそうだ。いまや日本が滅びるかどうかの瀬戸際にきている。この戦争は勝てぬかもしれぬ」 と敗戦を海軍軍人として分かっていての言葉です。

昭和19年(1944)10月20日大西は24名の若者を前に 「日本は正に危機である。しかも、この危機を救い得る者は、大臣でも大将でも軍令部総長でもない、もちろん自分のような長官でもない。それは諸子の如き純真にして気力に満ちた若い人々のみである」

「皆は、既に神である。神であるから欲望はないであろうが、あるとすれば、それは自分の体当たりが、無駄ではなかったかどうか、それを知りたいことであろう。しかし皆は永い眠りに就くのであるから、残念ながら知ることもできないし、知らせることもできない。だが、自分はこれを見届けて必ず上聞に達するようにするから、そこは安心して行ってくれ・・・しっかり頼む」 と語りました。

特攻を続ける理由を聞かれると 「ここで青年が起たなければ、日本は滅びますよ。しかし、青年たちが国難に殉じていかに戦ったかという歴史を記憶する限り、日本と日本人は滅びないのですよ」と答え 「日本精神の最後の発露は特攻であり、特攻によって祖国の難を救い得る」 と確信していたというのです。

大西は、零戦に250kg爆弾を抱かせて体当たりすることが、確実な攻撃法だと考えたのです。

特攻を言い渡された若者は、ドラマのようにカッコ良く毅然としたのではなく、泣き崩れたり、引きずられて飛行機に搭乗したという話もあります。

大西は8月16日自刃しますが、敗戦による責任を死ぬことで逃れた、この国は若者を滅ぼすことが伝統なのか。

今回のことは自分の名声のために、周到に計画して、純真で気力に満ちた若者を追い詰め、行動せざるを得ない状況にしたことを世間は分かっています。

被害が重篤なものにならなかったことが幸いでした。

美しい国を標榜した政治家が自らの手で醜い国に変える様なことばかりしたり、若者の希望を潰す権力者が現れたりと、矜持を失くした奴が目に付くことばかりが起こっていますねぇ。






日本問答?!

今週は急に夏のような暑さになりましたねぇ。昨日は元の会社のOB会の地域連絡会に出席したのですが、帰りの地下鉄の冷房は半袖では、まだ寒かったですよー

OB会の会員を2025年までに3000名にする計画を立てているとの説明に、思わず増やす目的に突っ込んでしまいました。OB会なのに何で会社と同じような発想なのか、もっと緩やかな集まりで良いのではと・・・。

利益を考えない人の集まりは、緩やかにいい加減な方が続くと思いますね。

利益を考えないと云えば、広目屋さんの 『洒落倒し300』 本の当初500部がほぼ完売して、増刷をすることになりましたよ。

ヒナブログから購入の方は、郵送料込みで1500円ですが、これから依頼する本屋やアマゾンでの販売はマージンが取られるので、1800円税別になるそうです。アマゾンのマージンは高額だと嘆いていましたね。

先日 ふらりと本屋を覗いて見つけたのは 『日本問答』 法大総長の田中優子氏と千夜千冊をブログに掲載している松岡正剛氏の対談本です。歴史の隙間の説明が、江戸時代を起点に古代から現代に渡って広く書かれています。

        日本問答

儒学は長い間天皇や公家の学問であったのを、何故江戸幕府は儒学の朱子学を幕府の官学としたのか。戦後教育を受けた私たちは、四書五経が何であるか全て答えられないし、内容もほとんど知らないですよね。

儒学を日本に伝えたのは真言僧の俊芿(しゅんじょ)で、学問として定着させたのは、臨済宗の渡来僧 一山一寧や蘭渓道隆で以降、京都・鎌倉五山で研究されたというのです。

誰もが理に従って生きるべきと説く朱子学は、君臣の身分を固定化させたい幕府の大義名分になりえたというのです。

それともう一つには、徳川将軍家の正統性をつくることで、家康は秀吉の朝鮮半島を征してから明に入る 「仮道入明」 ではなく、中国の根本的イデオロギーを欲し、儒学を正統性のロジックとして使おうとしたのではないかと推論します。

天皇と中国皇帝の関係を明示化するために、林家に朱子学をマスターさせ、天皇を中華秩序に位置付け、その天皇から任命された征夷大将軍の地位が、より安泰になると考えたというのです。

しかし漢民族の明が衰退し、女真族の清王朝に変わる時期になると、中国は正統の中国でなくなり日本は日本としてやらなければならなくなったというのです。

その中国の不安定政権がヨーロッパとの貿易の妨げとなり、肥前磁器(伊万里焼)が大量に輸出されるようになったのです。

時代が下がると朱子学は、町女たちでも論ずるようになるのは式亭三馬の 『浮世風呂』 でも書かれていますね。

日本問答は、日本を論ずる上で推論も交えているところもありますが、歴史の細かい部分が分かって面白いと思ったので、江戸あいとに紹介したけど、余り興味がなかったみたいで、ちょっと残念^^;






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Author:日向ぼっ子
小千住生まれ、大千住育ち 江戸が大好きなおきゃんな中年増で~す。
江戸文化歴史検定1級取得


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