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日向ぼっ子の大江戸散歩

現代のルーツ江戸を学んで今を探る

東寺展!!

先週の土曜日に上野の国立博物館で開催されている 「東寺」展を見て来ましたよ。未だ始まったばかりなので空いていました。

   東寺展

嵯峨天皇によって弘仁14年(823年)に東寺は空海、西寺は守敏に下賜されたといわれていますが、西寺は平安末期に廃寺になったとされていますね。

空海は賜った東寺を、真言密教の根本道場としました。

東寺展では密教経典に基づく曼荼羅や仏像が展示されています。

   曼荼羅2  曼荼羅3

曼荼羅とは、主尊を中心に諸仏諸尊の集会する楼閣を模式的に示したものとされています。

   帝釈天  帝釈天1

最後の会場には、16体の仏像が曼荼羅の世界を作っています。帝釈天の騎象像は撮影が可能です。

撮影中に 「帝釈天はイケメンなのだよ」 との声が聞こえましたよ。

16体の如来・菩薩・明王を180度から見ることが出来ます。

入り口の所には、空海・最澄の筆による物があり、空海の雄々しい字に比べ、最澄はたおやかな字を書いていました。

  科学館  上野

帰りに博物館裏のお庭を歩き、上野公園に出ると葉桜になる桜の下で若者が唄い、沢山の観光客がそぞろ歩いていました。





新札の人?!

肖像を渋沢栄一、津田梅子、北里柴三郎の新札が、令和6年(2024)に発行されるとのことです。キャシュレスを推進してるはずなのに、新札発行は矛盾がないのでしょうかねぇ。

肖像の三方とも江戸時代の生まれです。

      渋沢栄一1 渋沢栄一

渋沢栄一は埼玉県の藍玉製造販売と養蚕の豪農に生まれました。7歳のときに四書五経や日本外史を学びます。

文久元年(1861)22歳で江戸に出て北辰一刀流道場にに入門し、勤皇の志士と交流しますよ。

尊王攘夷思想から、高崎城を乗っ取り武器を奪い横浜を焼き討ちしたのち、長州と連携して討幕する計画を立てるのですが、従兄弟に説得され中止することになりました。

親族に累が及ばぬようにと勘当され上京します。京では八月十八日の政変後であったために、勤皇は鳴りを潜めていました。

その時に一ツ橋家の家臣 平岡円四郎と知り合い、一橋慶喜に仕えることになったのです。
慶喜が将軍になったことで、幕臣となります。

慶応3年(1867)慶喜の異母弟 徳川昭武のパリ万博出席に随行し、ヨーロッパ各国を視察したことが、帰国後の明治政府への出仕に役立ったようですね。

       津田梅子 津田梅子

津田梅子は下総佐倉藩士の娘として元治元年(1864)に誕生し、明治4年(1871)岩倉使節団に随行して6歳で渡米します。このときの女子留学生は5名で最年少でした。

2名は翌年に帰国し、明治14年(1881)に帰国命令が出ますが、山川捨松と梅子は在学中であったため翌15年(1882)に帰国します。

梅子は幼少期に渡米したために、日本語が不自由だったこともあり日本に馴染めなかった様です。明治22年(1889)再度2年間の留学を許可されますが、1年延ばして明治25年(1894)に帰国します。

帰国後 華族女学校等で教師となり、明治33年(1900)に華族平民の別のない津田塾大の前身 女子英学塾を開校します。

かなり厳しい授業だったようで、脱落者が相次いだといわれていますね。

       北里柴三郎 北里柴三郎

北里柴三郎は、嘉永5年(1853)肥後の庄屋に生まれました。母が豊後森藩士の娘であったことからか、柴三郎は幼いころから厳しく躾られたようです。

明治2年(1869)柴三郎は細川藩の藩校時習館へ入寮しますが、翌年藩校が廃止されてしまいます。その後 熊本医学校から東京医学校を経て内務省に就職します。

同郷で、東京医学校で同期だった東大教授の緒方正規の計らいにより、明治18年(1889)にドイツへ留学し、コッホに師事することになるのです。

ドイツ滞在中に脚気の原因を細菌とした緒方の説を批判したことが、明治25年(1892)に帰国すると、恩知らずといわれ東大医学部と対立し日本での活躍が限定されてしまいます。

この事態を救ってくれたのが福沢諭吉で、諭吉の援助により伝染病研究所を設立し所長となります。

この研究所は後に国に寄付され柴三郎の知らぬ間に、所管が内務省から文部省に移管されたことから、北里研究所を私財を投じて設立することになります。

諭吉の死後 恩義に報いるために、慶応大に医学部を創設し初代医学部長となり、終生無給で医学部の発展に寄与したといわれています。







新時代へ?!

新しい元号が決まりました。大方良い評価を得ているようですね。

柳原6

江戸時代の改元は、朝廷か幕府が申し入れて合意により決めていました。
新元号を考えるのは、菅原道真の子孫の公家高辻家だったのです。(あらら、今回の元号に所縁があるような?)

幕末の慶応改元時に高辻修長は 「平成」 を提案しましたが採用されませんでした。
修長は、生涯24案提出したそうですが、存命中には採用されなかったのですね。

      柳原

「文久」 と 「元治」 の改元時に 「令徳」 が提出されましたが、元治のときに徳川に命令すると受け取られ幕府から退けられます。(今回も 「令」 は国民に命令かなどと批判する人もいるようです)

新元号は現代では政府が決めますが、明治から戦前は天皇が決めていて明治改元の詔が(1868年9月8日)発せられた前夜、14歳の天皇は賢所で神楽奉納をして、2、3の候補からクジを引き 「明治」 を引き当てた云われています。

因みに 「明治」 の元号は江戸時代に10回候補になったそうですよ。

江戸時代は7、8案を朝廷側が考え、幕府に提案し幕府では、老中、儒学者らが協議し1案に絞り込んで返答したというのです。将軍が臨席することもあったり、朝廷の提案時には1、2案を公家らが希望していると示すことあった様ですね。

戦後には元号廃止論もあったそうですが、1979年に 「元号法」 「元号選定手続要項」 が制定され選定方法が明確化されました。

        柳原1

信長は元亀を改元することを望み、秀吉は改元には無関心でしたが、文禄5年(1596年)の大地震で伏見城が大破するなど被害は畿内全体に及ぶと 「慶長」 への改元を希望します。

秀吉は改元の儀式に参加する公家も指示し 「慶長」 も秀吉の提案でした。

家康は改元を自分の手でやろうとしますが、金地院崇伝から 「手続きは従来通りに朝廷の 『難陳』 などを経た方が良いが、事前に確認して決定する」 ことを提言されます。 

「元和」 は家康が希望した元号だそうです。

昭和のときは、25の数字を足すと西暦が判りましたが、今回は 「018(れいは)」 18を足すと判るのですね。

今日は春の暖かさで、1週間前の千住の柳原の桜は3分咲きでしたが、今日は満開でした。

春に桜を愛でることが出来るような穏やかな、災害や戦争のない時代であると良いですねぇ。






春はウキウキ?!

雲が厚い午前中に、西日暮里から千駄木へ桜を求めて歩いて来ましたよー

   西日暮里公園  諏方神社
    西日暮里公園                 諏方神社

地下鉄の西日暮里駅は、谷の底で歩道橋を上ると西日暮里公園があります。太田道灌の砦に船荷を運んだ舟人が目印にした舟繋松があった処です。江戸時代は花見寺といわれた青雲寺の一部だったのですね。

少し歩くと元久2年(1202)に創建された諏方神社があります。この辺は道灌山といわれ江戸有数の景勝地でだったので、今でも高所ですから下を見ると山手線・京浜東北線・新幹線が走っていましたよ。

諏方神社の隣が別当寺の浄光寺で、江戸六地蔵の三番目とされています。

     浄光寺  浄光寺1
      浄光寺                    地蔵尊

千駄木に向かって歩いて行くと、江戸の俳諧 談林派の歴代句碑がある養福寺や、日蓮上人作とされる大黒天が祀られた経王寺などがあります。大黒天は小さいので、よく見えませんでした。

  観音寺築地塀  観音寺
    観音寺築地塀(元禄頃)              供養塔
               
谷中の観音寺の築地塀を観ようと観音寺の前を通ると、赤穂四十七士の供養塔が観音寺にありました。

観音寺は享保元年(1716)に長福寺から観音寺となったそうで、六世上人の兄が四十七士の近松勘六で弟が奥田貞右衛門であったところから、供養塔が建立されたのですね。

観音寺を右に折れると江戸からの築地塀が残っています。

   岡倉天心  岡倉天心1
     六角堂                         天心像

築地塀に沿って下って行くと、岡倉天心宅跡で旧前期日本美術院跡に、天心坐像が安置された六角堂があります。ここの桜は、見ごろを終える頃でした。

    須藤公園  須藤公園1
      須藤公園

不忍通りを渡り、加賀藩の支藩 大聖寺藩(十万石)の屋敷跡には、大名庭園の面影を残した須藤公園がありました。桜は少しでしたが滝が流れ、赤い橋の先には弁天堂もあるのですね。

千駄木駅に着いて2時間の散策はおしまいですが、半熟どら焼きなるものがあると知り購入して食べてみたのですが、半熟感が感じられずに、ちょっとガッカリでした^^;

日曜の朝は人も少ないので散策するのは良いのですが、開いてるお店が少ないのが残念ですぅ~






皇居周辺の春?!

「チームモタ」 は会社の時の駅伝仲間です。
10年以上前ですが、皇居1周5Kmを3周 5Km、2.5Km、2.5Km、5Kmと4人で走りましたよ。

  寒緋がん桜 緋寒桜

2年ぶりに再会した昨日は少し雨が降り肌寒い中、男性2人は皇居1周を女性2人は千鳥ヶ淵の手前までおしゃべりしながら散歩して、11時から韓国料理で再会を楽しみました。

  しだれ桜 しだれ桜

皇居周辺は歩道を広げる工事中でしたが、緋寒桜は散りかけ、河津桜は満開でしたね。

 皇居1  皇居 皇居周辺

ネットでは宮家の結婚話に伴い、血税を使う宮家不要論が多く飛び交っています。敗戦を受け入れる時に、政府重鎮が懸念したのが国体護持でした。

敗戦後の世論調査で国体護持が90%と比較すると、納税している国民の意見を聞かないのなら次期天皇までは支持をするが、それ以降は不要と国民の意識は大きく変化していますね。

  大手門1 大手門遠景

白井聡著 『国体論』 の中で、坂口安吾が戦後に天皇制を作り出し維持する日本人について書いたものが掲載されています。

「藤原氏の昔から最も天皇を冒涜するものが、天皇を崇拝した」 と安吾は云うのです。

「時の為政者(藤原氏・将軍家)が天下に号令するより、天皇に号令させ真っ先にその号令に服従して見せ、人民に押し付けて来た」

この戦争における軍部もしかりと続けますが、白井はその後のアメリカへの追従も又同じ形式で、占領期のGHQ、マッカーサーは征夷大将軍であった。この場合の夷狄は、戦争狂の軍人たちや共産主義者たちだというのです。

アメリカは戦後処理に天皇を利用することを念頭に、開戦から日本の統治を考えていました

戦後の日米の共産主義の脅威に対しての国体護持に天皇が大きく関与し、国体護持は 「永続的敗戦」 として日本の現代にも続いているとしています。 

戦後史で分からなかったことの断片が理解出来、歴史は繰り返されるといわれるように、歴史の神代から現代へ繋がる流れの中で、為政者の形がどの様に変化するのか100年後が知りたいですね。

指の傷は綺麗になりつゝありますが、腫れが引かないので人差し指が使えず、PCを思うように打てませんよー^^;








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Author:日向ぼっ子
小千住生まれ、大千住育ち 江戸が大好きなおきゃんな中年増で~す。
江戸文化歴史検定1級取得


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