FC2ブログ


日向ぼっ子の大江戸散歩

現代のルーツ江戸を学んで今を探る

令和の改革?!

新内閣が発足して行革大臣が創設した 「縦割り110番」 なる目安箱が話題になっていますね。

目安箱といえば8代将軍吉宗の目安箱、幕末の阿部正弘が諸大名・陪臣・庶民へ広く意見を求めたことと重なります。

更に、明治政府の五か条の御誓文の一番目の 「万機公論に決すべし」 が思い浮かびましたよ。

      吉宗 吉宗

吉宗の目安箱は評定所前に設置され、原則的に毎月2日、11日、21日の3日間だけ受け付けられていました。功績の一つに医師の小川笙仙の提案した貧しい者への施薬院小石川養生所が設立されたことがあげられます。

政策に役立つ知恵というより、庶民の不平不満の投書が多かったといわれています。

         阿部正弘1 阿部正弘

阿部正弘のときには、吉原楼主からの投書や幕臣の勝海舟が提案した 「開国や貿易で富を得て軍備を増強することを提案した 『海防意見書』」 などがありました。

正弘の功績として、幕末に活躍した下級幕臣の江川英龍、岩瀬忠震、勝海舟、大久保忠寛、永井尚志、川路聖謨、などを登用したことがあります。

海防の強化に努め、講武所や長崎海軍伝習所、洋学所などを創設し、歴史的には 「安政の改革」 といわれていますね。

         由利公正 由利公正

『五か条の御誓文』 は由利公正が作成したとされていますが、坂本龍馬の 『船中八策』 が基になっているといわれています。

『船中八策』 の内容は大久保一翁が考えて、勝海舟に話し龍馬が知ったという説がありますが、一翁の足跡からヒナ的には首肯していますよ。

吉宗の目安箱が幕末の開国に悩んだ正弘に、多くの人の意見を聞くヒントになったか、一翁が考えた 「万機公論に決すべし」 の 「天下の政治は世論に従って決定すべきである」 に繋がっているのか?

「縦割り110番」 が機能して、令和の改革になれば良いのですが・・・。






たたき上げが売り?!

明日の自民党総裁選で次期首相が決まりますが、選挙前から派閥の力で決まっている出来レースですね。

     国会議事堂

メディアも3候補への質問で時間がないのでと、官房長官だけに首相になったら誰を官房長官にしますか?と質問する異常さ。

官房長官は話の取っ掛かりに、田中角栄や秀吉を思い起こさせるような農家の出で苦学生だったと言い出しました。

豊臣秀吉が天正13年(1585)に龍野藩藩主脇坂安治に宛てた手紙によると 「秀吉の御意に違う侯輩、信長の時の如く少々拘え候へとも苦しからずと空だのみし許容においてはかたがた曲事たるべく候  (秀吉の意思に背く者ども、信長の時代のようにかくまっても許されると思い込んでいると処分する)」

本能寺の変で信長が亡くなったのはこの手紙の3年前ですが、秀吉は信長に敬称を付けずに呼び捨てにしています。

秀吉が関白になるか、ならないかの時期でしたが、ここまで引き上げてくれた恩人に対する尊崇がないですね。

女性議員が女性の積極的登用を求める要望書を出しましたが、国会答弁で応えられずに涙を見せた元防衛大臣、次期首相になる候補に歯の浮くような媚を売る女性議員や八紘一宇のタレント議員だと、女性だからと無理に登用せずとも。

TVの3候補の話のなかで70歳過ぎの官房長官が話に詰まる所が散見されましたが、年齢を重ねると次の言葉が出なかったり、飛んだりする傾向がありますよね。

世間では70歳は高齢者といわれます。官房長官は雇用年齢を70歳に引き上げて、年金受給を遅らせるなどと応えてましたが、特殊な職業以外の人にとっては、どうなのかなぁと。

叩き上げの首相はどんな手腕を発揮するのでしょうかねぇ。




日本人の人情?!

新型コロナウイルスの発生で、後年に残る時代にいることを感じませんか?

   空襲

森友問題で証人喚問を受けた元国税庁長官には、3つの選択肢があったというのです。

真相を口にせず政権を守る、真相を明かして自らの証しを立てる、刑事訴追の恐れがあるといって逃げる。元長官が選択したのは3番目の逃げるだったのですが、彼は後年に歴史に汚名を残すことになるかもしれない。

戦争直後の話で、父親がニューギニアで戦死した19歳の青年がある銀行の試験で落とされた理由が 「片親で家が貧しいので、採用後に使い込みされたら実家に保証能力がないためだ」 と聞かされた青年は 「勝手に戦場に連れて行って殺しておいて、なにが片親だ」 と激昂したそうです。

敗戦後 食べ物がなく人々が飢えに苦しんでいたときに、戦争指導者だった服部卓四郎は、GHQの要請で米国側から見た戦史作りに協力したお陰で、缶詰や贅沢品、高い報酬を貰い困らなかったというのです。

米国人のカーチス・ルメイは、昭和39年(1964)に、戦後自衛隊育成に貢献したことにより勲一等旭日大勲章を授与されたのですが、ルメイは昭和20年3月10日の東京大空襲を指揮して10万人の民間人を殺戮していました。

ルメイは 「日本軍も米人捕虜に残酷な行為を働いていたので、むしろこの爆撃は近代航空史上では画期的なこと」 と胸を張って云ったといわれています。

ある老人が物言わぬ動物が思考を持たないというのは、人間の勝手な思い込みだと説いています。犬は飼い主の言葉を理解して判断する。 「命令通りにやれば褒められエサが貰えるが、逆のことをやれば怒られる。人が動物と違うのは、生きる姿にデリケートな心情を持つことが特権だ」 というのです。

日本人は明治以降現実が全てであったからこそ短期間で一等国になり、たちまち崩壊する目まぐるしいほどの変化を歴史に刻んできたといわれています。

明治以降の歴史に70年周期説がありますが、維新から日中戦争までが70年ほど、15年ほどの戦争期を経て、現代が正に戦後から70年余なので世の中の変革がウイルスによってもたらされたのでしょうか?

政界では20年後、30年後の未来がないであろう老人が、自分の今の権力と既得権益保持のために、次期首相を作ろうとしていますね。

世論調査で政権支持率が10%も跳ね上がったのは、本当に政策が良かったと思っているのか、病人に追い打ちを掛けない日本的人情からなのか?

新聞の世論調査によると3人の首相候補者の中で、菅氏が相応しいと石破氏を抜いて急にトップになったとか。

官房長官の総裁選立候補会見で、政策は現政権を踏襲し明確なビジョンは示されず、不正は正さずなのに、次期首相肯定が増えているのは苦学生で、後ろ盾なしに自力で現在の地位に上り詰めと話したから?

苦学生の叩き上げ立身出世譚が共感を呼んだのでしょうかねぇ??







もう一人の祖父?!

7年8ヶ月続いた安倍政権が首相の持病悪化で終焉を迎えました。

日本で開催される夏季・冬季のオリンピックの年と、子年の年には首相交代が起きるジンクスがあるらしいのですね。

首相が尊敬していた祖父の岸信介は、子年の昭和35年(1960)の安保闘争で退陣し、大叔父の佐藤栄作は昭和39年(1964)の東京オリンピックの年に首相となり、昭和47年(1972)の子年で札幌オリンピックのあった年に退陣しています。

            安倍寛1 安倍寛

首相は母方の祖父で 「昭和の妖怪」 といわれた岸信介に心酔していたようですが、父方の祖父 安倍寛(かん)のことは口にしなかったといわれています。

安倍寛は反戦リベラルの政治家で、昭和13年(1938)の国家総動員法の審議において西尾末広が 「ヒットラーの如く、ムッソリーニの如く、あるいはスターリンの如く、確信に満ちた指導者たれ」 と賛成の演説をしたときに 「反対!!」 と叫び、議席を飛んで議長席に駆けあがったというのです。

安倍寛はカリエスで歩くのがやっとの身体でしたが、そんな力がどこにあるのだと周辺の議員を驚かせたというのですね。

代議士2期目の昭和17年(1942)の選挙では、東条英機に反対して大政翼賛会の推薦を受けずに立候補し、特高警察に監視される中で当選しました。

当選後 大政翼賛会の大物議員から祝いとして、3000円(現在の1000万円)の電報為替が届きました。

選挙資金がなかったにもかかわらず、息子 晋太郎に 「非推薦なのに祝いは貰えん。返してこい」 と受け取らず、為替を送り返したのです。

寛は三木武夫と親しかったことから、岸とは馬が合うとも思えないのですが。

寛は昭和21年(1946)に死去します。晋太郎は昭和24年(1949)に毎日新聞に入社し、2年後に岸の娘と結婚することになった時、岸は安倍寛の息子との結婚を反対することもなかったのです。

晋太郎は 「岸の娘婿」 といわれることを嫌い 「俺は安倍寛の息子だ」 と誇らしげに語っていたそうですが、首相は 「岸の孫」 であることを強調しても 「安倍寛の孫」 とは決して口にしなかったそうです。






若き血潮?!

18歳の若者が半年足らずの内に、二つのタイトルを奪取して二冠の快挙を達成した将棋界

藤井二冠の指し手を見ているとAIと同じだったり、解説者が驚嘆するような思いもよらない手を繰り出します。

藤井二冠は話し方は柔らかく穏やかなのに、盤上を見る鋭い眼光は戦士です。

羽生九段は、全体の構成力が凄いと云ってますが、戦いに勝つためには現時点だけでなく大局的な目が必要ですね。

日本軍のように場当たり的に戦局を拡大して、後は現場に任せるでは現政府のコロナ対策と同じです。政治家は75年進歩なし??

        震天制空隊 震天制空隊

練馬の光が丘に昭和18年(1943)に1年足らずで飛行場が建設されました。

前年 米国のB29の初めての本土攻撃に対して、帝都防衛目的で飛行場建設が急遽決まります。

60軒ほどあった農家は、印鑑持参で区役所に来るように命じられ、買収契約に強制調印させられます。

2ヶ月後の移転を命じられ、土地は買い取られますが、農作物に対する保証はなし、移転費用は現物支給とされました。

飛行場建設には近衛師団や陸軍第一師団のほかに近隣の在郷軍人や青年団では足りずに、囚人までも動員され人海戦術で半年ほどで滑走路や兵営を造ったのです。

この飛行場から飛び立つ飛行機は、空対空飛行機でB29に体当たりするために、使い古しの中古機で機関砲・防弾鋼板・無線機を撤去して軽量化し、高空での機体性能を向上させた無抵抗機でした。

但し、操縦者には技術が必要でB29に衝突後機体から脱出し落下傘降下をするか、操縦席から放り出される形での結果的な脱出か、損傷した乗機を操縦着陸させることが求められました。

当時の日本の中古機でB29の高度まで飛行できる操縦者は貴重だったので、生還を求められたといわれています。

戦果を挙げられなかった操縦者は技量不足とみなされ、空対艦特攻隊に左遷させられたというのです。

大半の日本機はB29の防御火器が強固で、速度や高空での性能の差があり過ぎて、接近すらままならなかったそうです。

日本の軍人は、一人一殺が当たり前だと思っていたのか、海軍の人間魚雷、陸軍の特攻と体当たり戦法ばかり考え出しましたね。若い命ばかり散らし、命じた者は戦後も生き延びていた。

「国のため何か惜しまん若桜散って甲斐ある命なりせば」 と、一人の特攻兵は敵に向かいました。







 | HOME |  »

プロフィール


日向ぼっ子

Author:日向ぼっ子
小千住生まれ、大千住育ち 江戸が大好きなおきゃんな中年増で~す。
江戸文化歴史検定1級取得


最近のコメント



最近の記事



カテゴリー



最近のトラックバック



月別アーカイブ



ブロとも申請フォーム


この人とブロともになる


ブログ内検索



RSSフィード



FC2カウンター



リンク


このブログをリンクに追加する