日向ぼっ子の大江戸散歩

現代のルーツ江戸を学んで今を探る

ぷりぷりの大ハマグリ?!

「春のハマグリの季節に行こう」 と、昨秋お鈴さんから提案されたので、昨日 びらグルメで川崎の 「恵の本」 へハマグリ鍋を食べに行きましたよー とても大きなぷりぷりのハマグリを食べることが出来て、大正解でした^^

       はまぐり

      はまぐり1大きなハマグリには大きなしめじ

その後 お鈴さんの案内で川崎宿を八丁畷から歩きました。田中本陣・中の本陣・佐藤本陣と本陣が3か所もある大きな宿場です。江戸時代の江戸から京への往来では、一休みか通過してしまう宿場の位置ですが、旅人を送る別れの場所でもありました。

元禄7年(1694)5月11日 51歳の芭蕉は、初旅の少年次郎兵衛を伴って西上の旅に出ます。芭蕉の弟子たちは、体力が衰えた師と初旅の少年を気遣い川崎まで送っています。

曾良は更に箱根まで付き添い 『ふつと来て 関より帰る 五月雨』 と詠みます。

芭蕉は 八丁畷で 『麦の穂を たよりにつかむ 別れかな』 と詠んでいますね。 

田中本陣は 『民間省要』 を著わし、宿場の財政を立て直した田中丘隅が本陣家の主人でした。丘隅は後に8代吉宗に召され支配勘定格になります。

佐藤本陣は惣右衛門本陣ともいわれ、幕末の14代家茂が上京の折に、宿泊しています。

        関札

中の本陣は正式には惣兵衛本陣で、佐藤・田中本陣の間に位置したことから中の本陣といわれ、高札場や向かいに問屋場があったことから、ここが川崎宿の中心であったと推測できますねぇ。

田中本陣辺りの宿場道を少し外れると、ご神木の千年大銀杏がある稲毛神社があります。創建は不明ですが、鎌倉時代からの歴史は明白のようです。ここには16の小さな祠があり、それぞれに祭神が祀られています。

ここを過ぎると六郷の渡しまでは、もう少しですよ。

       六郷 六郷川

♪六郷のあたりで川崎の万年屋 鶴と亀との米(よね)まんぢゅう (こちゃ)神奈川いそいで保土ヶ谷へ (こちゃへ こちゃへ)♪ と万年屋は六郷の渡し場のすぐ際にありました。奈良茶飯が有名で、米国総領事のハリスが宿泊したり、和宮が訪れたとの話がありますよ。

慶長 5年(1600)に家康は、六郷川に六郷大橋を架け、修復や架け直しをしていますが、元禄元年(1688)の大洪水で流されたあとは、架橋をやめ渡し舟となったのですね。

現在 橋際に明治天皇が下向したときの明治天皇渡御の碑があり、23艘の船橋で渡った様子のレリーフが刻まれています。

       名板

川崎は戦前 重工業を主体とした産業が発展し、軍需生産にも大きな役割があったことから、日米戦争に於いて米国の空襲で壊滅的な場所になりました。川崎宿を歩いても江戸時代の名残もなく、立て看板や目印で場所が記されているだけなのは、残念です。

町歩きをすると、関東大震災か空襲で失った物の大きかったことをしみじみ感じますよー








本からくみ取るものは?!

『あの戦争になぜ負けたのか』 という本を読んでいましたよ。時々江戸を離れて、古代や近代史に関する本を読みたくなります。

「日本型組織は本音を言わないままで、お互い少しづゝ目標値を上げていく内に、愈々収拾がつかなくなる。虚構が肥大化する。そしてどうにも対応出来なくなる」 という癖がある。

「日本では、戦争の大義を唱え国家目標を云々する人はいても、それを現実につなげる大戦略を論じる空気が殆どなく、そもそもそれを考える役割の人がいなかった」 

戦略とは総合的・効果的運用方法で、大局的・長期的で策定する計画手段ということですね
戦争の大義を現代の政治や東京で起こっていることに変換すれば・・・。

      あの戦争になぜ負けたのか

インパール作戦を提言したのは、中将の牟田口廉也です。周りの師団長は兵站、つまり補給が無理だと抵抗したが 「何が何でもやる」 と声を大にして言う一人の独走を抑えられなかったのでした。

米・英・ソ連が蒋介石の中華民国に軍事援助のために用いた 「援蒋ルート」 の遮断が目的で行われた作戦ですが、日本兵はインドからビルマへ、仲間の死体で埋め尽くされた 「白骨街道」 を引き上げたというのです。

牟田口は戦後しばらくはインパール作戦の反省をしていたようですが、イギリス軍の中佐からインパール作戦成功の可能性に言及した手紙を受け取ったことから、自己弁護を言い出します。

 「あれはわたしのせいではなく、部下が無能のせいで失敗した」 と主張し、亡くなった兵士たちに対して一言の謝罪もなく昭和41年に病没しました。

航空機に於ける 「神風特別攻撃隊」 海軍の 「人間魚雷」 を指揮した者たちは 「俺も後から行くぞ」 と若者を送り出しましたが、8月15日を迎えると言ったことをすっかり忘れた如く 「戦後復興に尽くす方が大事だ」 と命を掛けた約束を破ったのですね。

日本の特攻は志願ではなく命令でしたが、ドイツでは特攻を志願する者がいたというのですしかし敗戦間際の戦争よりも戦後のドイツの興隆を考えて、多くの有為な若者を残すため特攻を禁じたのでした。

8月15日の玉音放送を聞いた後、中将 宇垣纒は自分で操縦するのではなく、部下の大尉に操縦させ 「武人としての死に場所を与えてくれ」 と大分の空港から沖縄に向けて特攻をしたのですが、米軍に打撃を与えることもなく、沖縄付近の海面に激突したといわれています。

宇垣に従った者は17名だったというのですが 「武人なら一人ひっそりと自決しろ!」 と憤りを感じます。

真珠湾攻撃より半年ほど前、優柔不断な首相 近衛文麿は、米国のルーズベルト大統領と秘密裏に会い、戦争の回避を画策しようとしますが、米国のマスコミに報道され、日本政府は国内の報道を禁止します。ところが親ドイツ派右翼や軍人に漏れ、近衛は非難され、命の危険に晒されることになりました。

米国側から日本の報道が反米運動を扇動している。日本の世論を抑えられないのならば、日米が和解しても国民の支持を得られないと、日米会談は実現しませんでした。偏向報道のマスコミに煽られた庶民は、戦争を礼賛することになって行きます。

物資のない島国を過大評価し、世界情勢を見極めることなく、有りもしない神風を信じ、精神論を振りかざし、とどめる場所を考えずに突き進み、戦況を拡大していった作戦とは。

責任を部下に擦り付ける上司や責任者の曖昧さ、声の大きな者へなびき引き摺られた形と、紙を配給しないと脅され政府・軍部からの偏向した情報を流し続けたマスコミの報道のあり方が、現代との相似形のように見えてしまうのは私だけ・・・。








古き良きものを?!

上野の国立博物館庭園が春の公開をしていますので、昨日行って来ましたよ。

    国立博物館
       奥立博物館本館の裏側 池には花筏

国立博物館の本館が寛永寺の本坊があった場所ですから、寛永寺の庭であったようです。5棟の移築された茶室やソメイヨシノ、オオシマザクラが未だ咲いていました。

    五重塔

綱吉が没後法隆寺に奉納したとされる五重塔、5棟の茶室は春草盧・転合庵・六窓庵・応挙館・九条館、第二回内国勧業博覧会の碑や、寛永寺の名残りのような有馬家の墓石があります。

春草盧は河村瑞賢が淀川改修工事際に建てた休憩所で、その後大坂へ更に横浜の三渓園から所沢を経て、昭和34年にこの地に来ました。

     春草盧 春草盧

転合庵は、小堀遠州が桂宮から茶入「於大名」を賜った折に、披露のために京伏見の六地蔵に建てた茶室です。京大原の寂光院を経て昭和38年に移築された二畳台目向切席は遠州好みといわれています。

      転合庵 転合庵

六窓庵は慶安の(1648~1652)4年の間に奈良興福寺慈眼院に建てられたもので、明治10年に移築されています。第二次世界大戦時には解体され、戦後 数寄屋の名工の手によって再建されました。

応挙館は、尾張の明眼院の書院として寛保2年(1742)建てられ、円山応挙が眼病を病んで明眼院に滞在したときに、床張付と襖絵に松竹梅を描いたといわれています。

      九条館 九条館

九条館の床張付は狩野派で楼閣山水図が描かれ、欄間はカリンの一枚板に家紋の藤花菱の透かし彫りが施されています。

六窓庵・応挙館は閉ざされていて中を見ることが出来ないのは残念でしたね。

今回は5月7日(日)まで開放されています。秋の紅葉の季節にも開放されるそうですので、国立博物館へ行った折には覗いてみては如何でしょう。

       鍵屋

その後 安政3年(1856)創業の根岸の居酒屋 「鍵屋」へ行きました。建物は大正時代のもの、カウンターと上がり框が2席で、女性だけの入店は禁止の居酒屋です。

頑固なオヤジさんと偏屈な女将さんかと思ったら、気の良いお二人。

呑みが進んで女将さんに 「どうして女性だけの入店禁止なのか」 聞いて見ると 「先代女将の遺言で、男は女を守ること。なので男が女を連れて来る」 という話でした。

何かこの辺は古き良き時代の名残で、女性はお酒をご馳走になるのが良いらしいと勝手に解釈 ^-^

ここの名物 「ウナギのくりから焼き」 は一人1本、煮豆腐も美味しかったですよー






サクラと新年度?!

昨日は会社時代のマラソン仲間から誘われて皇居へ、3人の仲間は皇居周りを走ったので、膝痛のヒナは千鳥ヶ淵公園まで歩きましたよ。

    皇居

11時頃には雨も上がり満開の桜の下は、ランナーや観光客で大賑わい。千鳥ヶ淵公園の手前から道幅が狭いので、以前に走っていた時は、車道へ出てしまったことを思い出しました。(危ない!!)

     皇居1

皇居周辺の桜は枝が張った大木が多いのですが、江戸時代の8代将軍吉宗は、江戸城の周辺に松を植えて城の目隠しとしたので、桜はいつ頃から植えられたのか調べてみました。

明治14年(1881)に英国人のアーネスト・サトウが英国公使館にサクラを手植えしたものを 東京府に寄付したことに始まるというのですね。明治31年(1898)に東京市により桜並木が整備され、大正8年(1919)に千鳥ヶ淵公園が開園しました。

皇居桜 皇居枝垂れ
    ソメイヨシノ                           しだれ桜

アーネスト・サトウの初来日は文久2年(1862)で、横浜の成仏寺において日本語を教えていたアメリカ人宣教師サミュエル・ブラウンや、医師の高岡要、徳島藩士 沼田寅三郎から日本語を学んだとされています。

生麦事件の賠償金交渉では、未だ通訳は出来なかったようですが、文久3年(1863) 老中 小笠原長行から英国公使ニールへの手紙を翻訳しています。手紙の内容は、将軍 家茂から孝明天皇宛に 「5月10日をもって攘夷を行う」 と約束したことを知らせるものだったのです。

     花筏 花筏
     
サトウは勝海舟や西郷などの幕府要人や各大名、攘夷の武士たちとの関りも多く、一説ではスパイ的仕事をしていたのではと言われていますね。

明治28年(1895)には、英国公使として3度目の来日をしていました。2度目の来日時、日本人の指物師か植木職の娘 武田兼を内妻にして3人の子供をもうけています。

「サトウ」 はスラブ系の名で日本人の 「佐藤」 とは無関係ですが、サトウを 「薩藤や佐藤」 の字を当てて、日本名で 「薩藤(佐藤)愛之助」 と名乗っていました。

      冊子

今日は雨の中、歌声を主宰している友人のロコさんが著作した冊子 『NO MORE 認知症』 を持参してくれました。歌と手話で認知症を予防する冊子で、長年携わった歌声ボランティアの経験から書き上げたものです。

ヒナが初期の原稿チェックとアドバイスをお手伝いしてから、1年ほどで完成させています。内容は歌あり、手話あり、話ありと楽しいものが出来上がりました。

この3週間ばかりは、会社時代の人たちからの誘いで、大笑いの場面が続いていました。

人生を豊かに楽しくしてくれるのは、様々な場面で出会った人たち(ブログだけでも)のお陰だと、感謝一杯の新年度の始まりです^^






過ぎたるは猶及ばざるが如し?!

相手の気持ちを推察するとは、今 巷間では 「忖度」 といわれてますが有能なサラリーマンで、これをしない人はいないでしょう。

ヒナは十数年秘書業務をやっていましたが、顧客からの依頼を自分で処理することはなかったですよ。必ず上司に報告するし、指示を仰ぎました。組織では逸脱した行為はやってはいけないことで、上司と部下は信頼関係を作らないと仕事は出来ませんね。

伊勢津藩主となった藤堂高虎は、家康とどのように信頼関係を作ったのかと思っていました

関ヶ原の戦いの前年 慶長4年(1599) 家康は、病に伏していた前田利家を京の屋敷に見舞うために、伏見から船で八軒家の船着き場につくと見知らぬ駕籠が停まってました。

        徳川家康-2 家康

中から藤堂高虎が出て来て 「ここから前田様の屋敷への道で、家康様のお命を狙うものがおります」 と告げます。

高虎は家康の身代わりとなり、家康は無事に利家を見舞い、高虎の屋敷に参ります。高虎は家康の為に屋敷を、厳重に守ったといわれています。

その後の高虎は 「裏切者」 「風見鶏」 と揶揄されますが、関ヶ原の戦いでは脇坂安治や朽木元綱らに東軍への寝返りの調略を行ったり、大谷吉継隊と死闘を繰り広げます。

それらの軍功により家康の信任を得ることになり、家康の死去に際して枕頭に侍ることを許されました。

高虎は加藤清正と共に、築城の名手といわれていますが、最初の城つくりは秀吉の弟の羽柴秀長の家臣のときに、秀長からの命により、天正13年(1585)に和歌山城を築城したのがはじまりです。

         藤堂高虎 高虎

高虎は6尺2寸(約190cm)の大男で力もあり、勇猛果敢な武士であっただけでなく、戦略的築城も出来るという才能を開花させます。

秀長に仕える以前は、浅井氏をはじめとして4人の武将に仕えますが、気が荒くプライドが高かった故に、浅井氏没落後は同僚との不和や認められないことで主君を変えて来たのですが、秀長は破格の禄高で渡り奉公人だった高虎を召し抱えたのです。

仕事は人間関係が上手く行かないと大変ですし、良い上司だと見えない才能を引き出してくれるものです。

上司の専務は 「お前はスギタルだ!」 とヒナに言いました。今回の高官達も 「スギタル」 が多かったのかな??









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Author:日向ぼっ子
小千住生まれ、大千住育ち 江戸が大好きなおきゃんな中年増で~す。
江戸文化歴史検定1級取得


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