日向ぼっ子の大江戸散歩

現代のルーツ江戸を学んで今を探る

夏の吉原での話!?

「終戦2、3日後に政府から女を集めて、進駐軍用の慰安所を作るように要請があり、焼け残った数棟のビルが慰安所に充てられた。一つはシロ用、一つはクロ用と決められ、戦争でバラバラになった女の子が呼び集められたのだ」 という話を数年前 暑い夏の昼下がりに、80過ぎの吉原の町会長から聞きましたよ。

   吉原格子先の図 応為  吉原格子先の図

この話の信憑性を調べると、昭和20年(1945)8月の終りに銀座の焼け跡の数ヶ所に、内務省からの看板が立てられました。

新日本女性に告ぐ!
戦後処理の一端として、進駐軍慰安の大事業に参加する新日本女性の率先協力を求む
女事務員募集、年齢18歳以上、25歳まで、宿舎、被服、食糧など全部支給
特殊慰安施設協会

新聞には 「急告 特別女子従業員募集、衣食住及高給支給、前借ニ応ズ、地方ヨリノ応募者ニハ旅費ヲ支給ス 東京都京橋区銀座7-1特殊慰安施設協会」 の広告が掲載されました。
 
東京の警視庁保安課が、吉原だけでなく芸妓・公私娼妓・女給・酌婦・常習密売淫犯などを集めるように、東京飲食組合、芸者屋組合、貸座敷連合会、慰安所組合などの代表を集め、協力を依頼したのです。

それでも人が足りないので、銀座の看板や新聞広告で、アメリカ兵相手の女性を公募したのですね。

3月10日に下町が、5月に山の手と官庁街が空襲で焼けていたので、住居も衣服もなく飢えに苦しんでいた女性は仕事の内容も分からず、飛びつくように応募したといわれています。

無条件降伏すれば日本人は 「男は奴隷、女は犯される」 と考えられていて、近衛文麿の発案でした。

政府は1000人程の応募を考えていましたが、実際には4000人が応募して来ました。

応募してきた女性たちに 「お国のためになる仕事ですから、誰に恥じることもありませんよ」 との甘言を弄し、プロの女性たちから外国人相手の実技指導を受け、8月下旬アメリカ兵が上陸する頃に吉原は開店しましたよ。

開店と同時に進駐軍兵士が殺到し、連日行列が出来たといわれていますが、料金はかなり高く、一般兵士では始終利用するわけにはいかなかったので、吉原に来る米兵の中には遊妓を強姦する者や、強盗事件が頻発しました。

ここで働く女性たちは 「おいらん」 ではなく 「パンパン」 といわれ、進駐軍将校に囲われると 「オンリー」 と蔑称されたのですね。

「パンパン」の語源は 「米兵が夜、雨戸を パンパンとたたいた」 「南方のどこかの言葉」 「女が米兵に『パンをちょうだい』といった」 などの説がありますね。

1年ほど経つと性病が猛烈な勢いで広がり、米国側は吉原などの遊興地への米人立ち入りをオフ・リミットとします。進駐軍は性病の広がりの原因は、日本側にあるとします。

昭和21年(1946)1月に 「日本の公娼制度に関わる一切の法規廃止」 の指令がGHQから出され、公娼制度は廃止されることになるのですが、GHQからの廃止命令に対して日本政府は、特殊飲食店を指定し、風致上差し障りがない場所に限り集団的にこれを認める方針を示しました。

風致上差し障りがない場所は、戦前から遊廓や岡場所、宿場女郎が居た処で 「赤線地区」 と呼ばれるようになります。広告で集められた女性たちの一部は街娼に転身し、お客の米兵を自己調達することになり、街娼が集まる場所が 「青線地区」 と呼ばれるようになったのですね。

最盛時の娼婦は、全国で7万人、GHQの廃止後でも5万5千人がいたといわれています。

朝鮮戦争の特需で日本経済が立ち直るまで、売春事業が当時の外貨獲得のトップだったといわれています。

同性として心痛む話、戦後 菊池章子が歌った 『星の流れに』 が、思い出されます。






72年目の夏?!

猛暑の後 急に涼しくなり、ヒナの体調を気に掛けて会社の後輩が、メールをくれたのは嬉しくありがたいこと。ヒナはこの2週間 早朝からゴルフの松山君をTVやネットで追っかけていましたよー

今夏は、おかしな気候が続いますが、敗戦の年の8月はどんな夏だったのでしょう。現在の世界を動かしている大統領も首相もその夏を知ることもなく、戦争が終わってから生まれた人ばかりですね。

故田中角栄元首相は 「戦争を知っている世代が政治の中枢にいるうちは心配ない。平和について議論する必要もない。だが、戦争を知らない世代が政治の中枢となったときはとても危ない」 と新人議員に薫陶していたというのです。

角さんの予言通りの展開が東アジアで起こりそうな流れがありますねぇ。

日本には何度か外部からの文化が移入され、日本人はそれらから発展させたものを作り上げて来ました。大和朝廷の時代には中国から、黒船以降の近代には西洋から、戦後の占領下では米国の民主主義が今までの日本の観念や思想を大きく覆しました。

         天皇とマッカーサー

マッカーサーは終戦から半月後の8月30日に、連合国総司令官として厚木に降り立ちます
開戦時フィリピンで日本軍に苦汁をなめさせられたマッカーサーは、この国に君臨し支配することに対して、優越感で一杯だったと想像出来ます。

マッカーサーが離日するとき、人々は熱狂的に彼の離日を惜しみ、マッカーサー神社まで建立しようとしたのですが、戦後の日本人にとってマッカーサーは、どれほど偉大な人物だったのでしょう。

昭和20年9月27日 昭和天皇は、はじめてマッカーサーを訪問します。マッカーサーは天皇を出迎えることはせず、ネクタイも締めない略式の軍服で、モーニングの礼装姿の天皇と面談します。

マッカーサーは、面談で天皇が命乞いをすると思っていました。天皇は挨拶の後 「国民の戦争遂行にあたっての決定・行動に対する全責任を負う者として、あなたの代表する諸国の採決に委ねる」 と言います。英語では 「You may hung me」 と。

天皇とマッカーサーの会談はこの回を含めて11回極秘に行われ、一切外へは出さないと約束されたのですが、後年 マッカーサーが回想録に書いたり、今上天皇の家庭教師をしたヴァイニング夫人の日記や通訳のメモから少しづゝ分かって来ています。

占領下の日本を作ったのはマッカーサーや米国の意向だけではなく、天皇とマッカーサーの会談であったかもしれないのですよ。

天皇は子供の時から軍人として鍛えられていましたから、戦術的・戦略的な目は特に秀でていたというのですね。

天皇は、ソ連のアジア進出で共産化された中国や朝鮮の一部が、台湾や日本へ及ぼす影響を懸念し、朝鮮半島での戦争を予想していたというのです。

当時の日本国民の95%は、天皇制を支持すると新聞などの調査では示されています。

昭和21年10月16日に3回目の会談があり、その10日前に新憲法が国会を通過して成立していました。

天皇は憲法成立によって民主的新日本の基礎が出来たのは、マッカーサーの一方ならぬ指導の賜物だと感謝します。マッカーサーは、陛下なければ憲法もなかったでしょうと返答します。

天皇は、戦争放棄を大理想に掲げた新憲法に忠実であるが、激動する世界情勢では非常に危険ではないかと不安を口にします。マッカーサーは、戦争をなくすには、戦争を放棄する以外にない。日本が実行すれば、50年後に日本が道徳的に勇敢かつ賢明であったことが立証されると応えました。

その後の会談でも、天皇が軍備撤廃に対する安全保障を問うと、マッカーサーは 「アメリカは日本を守ることカルフォルニアを守るが如く」 と言ったといわれています。

11回の会談で、国民の飢餓の救助を願い、憲法・安全保障・米国の駐留問題と二人は、現代に続く話をしています。

有名な昭和天皇とマッカーサーのツーショット写真が新聞に掲載されると、米国の軍門に下ったと悲憤慷慨し、5年7ヶ月後にはマッカーサー神社を造ると熱狂した日本国民。

帰国後のマッカーサーが米国上院で 「アングロサクソンやドイツ人は文明的に壮年期であるが、日本は12歳の少年だ」 と証言したことで、日本を侮辱したと怒り、神社建設は消滅したそうです。

第二次世界大戦から72年 マッカーサーが理想とした戦争はなくならず、愚かな子孫たちは新たな破壊への道へ突き進むのでしょうか?






待てば甘露の日和あり?!

友人が、11月に千住の劇場で開演される白石加代子氏と佐野史郎氏の芝居の切符を取ってくれた。最近は自分で動かなくても観たいもの、読みたい本が自然とやって来るのですよ。

       白石加代子

3日ほど前 宗教学者の山折哲雄氏の著 『「ひとり」の哲学』 を読む機会も偶然やって来た。表題の哲学にちょっと読むのを躊躇ったが、内容は親鸞・道元・日蓮を主軸にした13世紀鎌倉時代の新興の宗教の起源という趣でしたね。
       
歴史の中でも宗教に関することは、理解するのが難しい。

明治政府の愚策の一つ、廃仏毀釈で寺と神社が分かれてしまい、江戸時代までの宗教の形が変化してしまっているのではないかと思っているのですよ。

日本人が古代から持っていた土着の宗教と仏教の結び付きは、神仏習合という形で日本人に受容されたのではないかと思っているのです。

        ひとりの哲学 山折哲雄

江戸の穢多頭 浅草弾左衛門を調べているときに、穢多地域には必ず白山神社が鎮座している疑問から、白山神社を調べたことがあったのです。

白山神社の起源から、分布、山岳信仰と比叡山との拘わり、真宗を中心にした加賀の覇権争いが加わり、果ては祭神の菊理媛は古事記には出てこないが、日本書紀に一ヶ所だけ書かれていて、渡来系氏族の秦氏の信仰からではないかともいわれています。

日本の仏教は、飛鳥時代に伝来し、空海の真言宗と最澄の天台宗から形作られ、鎌倉期の新興の宗教発展の起源が分からなかった。親鸞が下級公家の出、道元は上級公家の出身で、日蓮は自称 海辺の旃陀羅の子。

分からないことは、いづれ解きほぐせる時が来るだろうと置いておくと、ヒントがやってくるのですねぇ。

親鸞のひとりは懺悔から阿弥陀如来への帰依、道元のひとりは禁欲から無へ、日蓮のひとりは議論から幕府への批判と予言へと鎌倉期の宗教者と13世紀という新たな宗教の始まりを教えてくれる書なのです。

本の読み方は人それぞれ、宗教家が書いたものでも歴史書として読み、本の中から何を汲み取るのかは、読む人の感覚なのでしょうねぇ。






騒がしい女?!

年1回会う仲間がいます。30数年前にサウジアラビアで仕事をしていた彼らと、日本から支援していたヒナとは長い付き合いが続いていますよ。この仕事は、受注から竣工まで色々なことがあったので、会うたびに同じ話題でも面白おかしく話が続きます。

この夏は、女性が大活躍ですねぇ。

政界の右も左もトップの仕事をしていた女性が辞職、還暦オバちゃんのSNS騒動、不倫の議員の酷い言い訳と、日々色々なことがありますよね。

ヒナたちの時代の女性の仕事は、男性の仕事をサポートすることでした。

今は女性も第一線で男性と肩を並べて仕事をするようになりましたが、女性の社会進出の歴史が浅いので男性のように、ある意味の基本が出来ていないような気がするのです。

自分の進退について相談したり、仕事で攻められ涙を見せる女性は、ちょっと。

     大奥女中

ある貧しい旗本の女房が、提灯張りや煙草盆作りで家計を支えていました。

夫は博打好きの道楽者で、ある日旗本の奥方との不義が露見して、二人で出奔してしまい、御家は断絶となってしまいましたが、女房はわずかな伝手から、大奥の祐筆になることが出来たのです。

彼女は、才気煥発で多芸多才だったようで、時の10代将軍家治の側室 蓮光院に気に入られ、トントン拍子に御年寄に出世しました。

只野真葛著 『むかしばなし』 によると 「博打うちの女房ほど抜け目なきものはないというを、勝れし才人にて、何を見ても目のさやが外れ 心が黒かりし故 ぬけ出でしなるべし」 というのですね。

         むかしばなし只野真葛

大奥での名前は 「玉沢」 と言い、老中でも遠慮する程で 「天下を動かせし才人」 と評されるほどの権勢を持っていました。娘を彼女に預けた大身の旗本もいたというのです。

「飛ぶ鳥もおつるほど」 の羽振りの良さでしたが、寛政元年(1789)公金の不正貸付に関与したとして、松平定信から御年寄を罷免されてしまいます。 

奥女中であるにも関わらず、分を越えて表の政治や権益に介入したことは 「重々不調法之事」 とされたのですね。

御年寄の職は剝奪されましたが、引き上げてくれた蓮光院が病で臥せっていたので、女中として看病に当たるように仰せつかることになりました。

「格別之訳を以て」 俸給も従来通り支給されたというのですが、定信は大奥の反発を恐れて手心を加えたというのですよ。

今も昔も人間関係大した変化はないのでしょうねぇ。







暑くて、暑くって!!

暑くってPCを開く気が起きないし、文章を考えるのもムリ~。

一昨日は暑い中びらグルメで富士へ、と言っても高田富士ですけどね。

      都電
      早稲田へは町屋から都内唯一の都電で行きました

毎年7月の2日間早稲田の水稲荷神社の境内にある富士塚に上ることが許可されています 富士塚は、あまり大きなものではないですよ。

富士塚は江戸時代に始まった 「富士講」信仰に於いて、富士山に直接詣でることが出来ない人のために、富士山を模した富士塚が造られ、登ると富士山登攀と同じご利益を得られるといわれたものですね。

  高田富士1   高田富士

高田富士は、食行身禄の弟子 高田藤四郎(日行青山)が、 安永9年(1780)に江戸ではじめて築いたものといわれています。

現在の水稲荷神社の隣には甘泉園という庭園があり、江戸時代には御三卿の清水家の下屋敷で、明治になり相馬子爵邸の一部だった場所です。

     甘泉園 甘泉園

水稲荷神社と甘泉園は、ちょっと荒れ果てているので、もう少し整備すれば良い憩いの場所になるような??

富士塚登攀後は、高田藤四郎の墓所がある宝泉寺と穴八幡宮へ行きました。途中馬場があった場所を確認して、早稲田大学南門から大学構内へ大隈重信像を横目に、宝泉寺へ。

      大隈重信像

宝泉寺は江戸時代に、はじめて富くじが行われたともいわれていますよ。文化13年(1816)には寺男の伝蔵が、畑を広げようと寺内を掘り起こすと小判が出て来たという話もありますね。

宝泉寺の方の話では、日行の墓は移動しているので墓石だけとの事でした。

宝泉寺の向かいの穴八幡宮は、享保13年(1728)に8代将軍吉宗が、世嗣の疱瘡平癒祈願のため流鏑馬を奉納したことから鳥居脇には、流鏑馬の像があります。

     穴八幡

寛永18年(1641)に宮守の庵を造るため、僧 良晶が南側の山裾を切り開いていると横穴が見つかり、中から金銅の御神像が現れたので 「穴八幡」 と称するようになったといわれています。

3代将軍家光は、この話を聞いて穴八幡を幕府の祈願所 城北の総鎮護としたというのです。

江戸時代から庶民の間で蟲封じの祈祷が有名で、明治12年(1879)には、皇太子だった大正天皇の蟲封祈祷も行ったようです。

夕方近くの1時間ほどの早稲田散策だったのですが、暑くって皆の気持ちは 「ビールを吞みた~い!!」 状態でしたよー^^;






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Author:日向ぼっ子
小千住生まれ、大千住育ち 江戸が大好きなおきゃんな中年増で~す。
江戸文化歴史検定1級取得


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