FC2ブログ


日向ぼっ子の大江戸散歩

現代のルーツ江戸を学んで今を探る

鳶魚の江戸学?!

久しぶりに三田村鳶魚の著書を読んでいた。鳶魚は明治3年に八王子千人同心の家系に生まれ、若い頃は三多摩の壮士として自由民権運動に参加していたという。

新聞記者として日清戦争に従軍した後に、江戸風俗や文化を研究するようになったというのですね。

          鳶魚翁 三田村鳶魚

史料の出所が不明だったために、歴史学界ではあまり評価されなかったようですが、戦後在野の江戸学者として評価されるようになったのです。

鳶魚の本は書き方が独特なので、現代では読みづらいかも知れませんが、様々な史料から抜粋された文章と細かく江戸の情報を読み取ることが出来、そこから導き出す鳶魚の考えが面白いですね。

『公方様の話』 に家康の女漁が書かれていますが、武田家滅亡後 信玄の娘の松姫を側室にするために捜索をしたというのです。

          家康 家康

武田家遺臣は、松姫の代わりに穴山梅雪の養女 お都摩を身代わりとして差し出しました。お都摩は家康の五男信吉を生み武田信吉として武田家を再興します。

鳶魚は 「系図の怪しい権現様が、甲斐源氏の嫡々武田信玄の娘を側室にして自慢したかったろう」 と書いています。

家康は若い時には加茂朝臣と名乗り、後に藤原朝臣、最後に源家康と姓名不確な家筋なのだから信玄の娘に我が子を産ませ武田氏を名乗らせるのは、いかにも面晴れ(面目躍如)な気もしたろうというのですが、お都摩が偽物であることを知りつゝ武田氏を名乗らせたというのです。

信吉は、慶長8年(1603)に常陸水戸15万石を与えられますが、翌年21歳で逝去し、家康の11男の頼房が継ぎ水戸徳川家の祖となります。信吉に仕えていた武田氏遺臣の多くは、水戸家に仕えることになりました。

          武田信玄 信玄

松姫は、信玄の末娘で8歳の時に織田信長の長子信忠と結婚を約し、元亀3年(1573)12歳の時に三方ヶ原の一戦に信長が家康を支援したことで信玄が憤り、縁談も破棄されたのです。

翌年 信玄が亡くなり松姫は18歳から薙髪して 「新館尼公」 と云われていたというのですが、尼になったのは八王子に逃れてからだとも云われています。

八王子横山町に信松院という曹洞宗の寺院が松姫の庵居の地で、信玄の 「信」 と松姫の 「松」 を寺の名にしたと伝えられているのですね。

家康は正妻2人、側室15人で40代に多くの女を側室にして、後家が好きだったというのは有名ですねぇ。





将軍になり損ねたー?!

今 流行っている風邪は、咳がひどくて他の症状はないそうですが、ヒナも突然 声がかれて体側が痛くなるほど咳が出て大変でしたが、漸く治りましたよー

6歳の7代将軍 家継は、風邪をこじらせて肺炎になり亡くなりましたね。

          7代家継 家継

家継には、父の6代将軍 家宣の同母弟で上野館林藩主の叔父 松平清武が居ました。

家宣と清武の母は、甲府藩主 徳川綱重の側室 保良で、千姫に仕えていた松坂局の女中でしたが、綱重に見染められて側室となったのです。

綱重は19歳で関白二条家から正室を娶る直前に、26歳の保良は家宣(綱豊)を出産し、翌寛文3年(1663)に清武を生みます。

綱重は正室に憚って家宣を家老の新見正信に、清武は藩士の越智喜清に養育されることとし、保良は寛文4年(1664)病没します。

新見家の養子となっていた家宣は、9歳の時に男子がいなかった綱重の世嗣として呼び戻され元服します。

家宣は43歳の時に綱吉の養嗣子となり、48歳で6代将軍となりました。家宣が将軍になったことで甲府藩は絶家となり、家臣は幕臣となっています。

          6代家宣 家宣

家宣は将軍在職3年で逝去し、3歳の家継が7代将軍となりました。

家宣は7代将軍には幼い実子 家継より尾張の吉通を望んでいたのですが、新井白石・間部詮房は尾張の家臣と幕臣の間で争いが起こり、大名を巻き込む天下騒乱になることを懸念し、家宣没後に家継擁立を推進したというのです。

白石も詮房も実権を握りたかったのでしょう。吉宗が8代将軍になると、白石・詮房は失脚しましたね。

7代将軍家継が危篤になったとき、6代家宣の正室 天英院は8代将軍に家宣の実弟の松平清武を推します。

清武は実兄 家宣が将軍になったときに、館林藩主となり松平姓を名乗ることは許されいました。

清武が養育された家臣 越智の家督を継いでいたこと、54歳という高齢であったこと、舘林藩が重税のため一揆が頻発していたことから、将軍として相応しくないとされました。

清武も将軍職への野心はなかったと云われています。

清武には19歳の嫡男 清方がいましたが、8代将軍候補になることなく、清武の家督を継ぐこともなく27歳で亡くなります。

清方が亡くなった同じ年に清武も60歳で亡くなり、家光の男系は断絶しました。

8代将軍には紀州の吉宗がなりましたが、従来 当主が将軍継嗣として江戸城に呼ばれると廃藩・絶家となるのですが、吉宗は御三家の紀州は、東照神君 家康から拝領した聖地であるとして、従兄の宗直に家督を譲り存続させています。

吉宗には将軍になるために、尾張藩に御庭番を送り込み藩主・世子を殺害したという陰謀説がありますが、棚ボタの将軍就任だったからなのでしょうねぇ。






天璋院篤姫の怒り?!

暑かったり、涼しくなったりと今年は極端な気候なので、久しぶりに酷い咳が続く、風邪を引いてしまった。咳は集中力を欠くので、気力がなくなってしまいますね。

TVの 「西郷どん」 は江戸城無血開城が終わり、天璋院篤姫は西郷に徳川に関する本を渡していたりしましたが、歴史上とは違いますよ。

        篤姫

天璋院は、徳川家の居城である江戸城を新政府から返還してもらうために、上野戦争の前に江戸城に駐屯していた薩摩藩士で新政府の参謀海江田信義にも返還を求める書面を送っています。

         海江田信義  海江田信義

しかし、新政府内の大勢は徳川家への断固たる処分であったために、西郷や海江田の発言は低下し沈黙を余儀なくされるのですね。

その後彰義隊が上野戦争で敗れると、駿河・遠江70万石の移封が公表され、天璋院は激怒します。

天璋院は、徳川家が田安徳川家 慶頼(よしより)の嫡男で4歳の亀之助が16代当主となり、駿河・遠江に移封しても江戸に残り巻き返しを画策します。

奥羽越列藩同盟の仙台藩主 伊達慶邦(よしくに)に、薩摩・長州は朝敵であると糾弾する書状を送ります。

          伊達慶邦 伊達慶邦

天璋院は 「寛永寺の中堂には天皇の宸筆の勅額が掛けられ、門主は法親王が迎えられ輪王寺宮と称されている。寛永寺は皇族が住職の寺であるのに、攻撃するとは朝廷への攻撃と同じであるから朝敵である」 と断じたのですね。

天璋院は輪王寺宮や会津の松平容保にも長州・薩摩討伐を願う書状を送りますが、天璋院の願いは叶うことはなかったのです。

明治になり薩摩藩は、天璋院に生活支援を申し出ますが、天璋院は断って徳川家の人々に質素な生活を徹底させていたのです。

明治16年(1883)天璋院は、中風発症し47歳で逝去します。

天璋院の祥月命日には 「あんかけ豆腐・白いんげんの甘煮・さがら茶のご膳」 を添えて遺徳を偲にだといわれ、この慣習は太平洋戦争時まで続いていたそうです。

さがら茶は静岡牧之原台地近辺から収穫されるお茶ですねぇ。

天璋院篤姫はこの時代の女性として、婚家に忠義を尽くしたのです。






相撲の国技は僭称!!

貴乃花親方が相撲協会を去ると宣言した。ヒナは彼のお父さんの貴ノ花が好きでした。伯父さんの若乃花から貴ノ花時代までは、相撲をよく見ていたので、すー女のはしりかもしれませんね。

江戸時代の相撲、国技と云われる所以を知ろうと思い、三田村鳶魚の 『相撲の話』 を読んで見ましたよ。

江戸時代の相撲取りは 「通り者」 といわれ、怪力を利用した乱暴者・無頼の輩として扱われていました。

           IMG_4940.jpg  江戸の力士

江戸後期の儒学・経世家の帆足万里は、勧進相撲禁止を唱えます。田舎の通り者には相撲上りが多い、相撲の弟子が居ると地方の治安が保てない。その根っこが勧進相撲だから禁止しなければいけないというのです。

奉納相撲は古くからあり、寺社の年中行事として日も決まっていて、力自慢・腕自慢が出て来て相撲を取り、営業的なものではないのです。

勧進相撲には寺社仏閣の修理を目的として行われるものと、相撲取りの収入を確保するものとがあり、後者が一般的であったというのですね。

江戸初期には奉納相撲と寺社再建勧進相撲以外の禁止令が度々出されましたが、貞享元年(1684)正月に深川八幡で晴天8日の一般的勧進相撲が許可されます。

幕府から出された条件は 「相撲取りであって、諸大名に抱えられもせず、部屋も持っておらぬ者の世渡りのために、勧進相撲を許可するが、必ず一人の主催者(勧進元)を立てて取り締まりの責に任ず」 

          行司と呼び出し  行司と呼び出し

相撲取りの収入を目的とした一般の勧進相撲が許可されると、寺社の領域での見物に馴染があることから相撲は町奉行の支配でなく、寺社奉行支配となったというのです。

山本博文先生はこの本の終わりに補足的に 「相撲取りの生活」 を書いています。

それによると勧進の名目がなくなり 「御赦免之大相撲」 となるのは寛延2年(1749)で、江戸では春・冬2回、夏は京、秋は大坂での合同相撲興行という形になったと言います。

幕府からは相撲取りは胡散臭い存在でしたが、11代将軍家斉は5回、12代家慶は2回上覧相撲を催します。

乱暴で胡散臭いと思われていた相撲取りを、幕府は国技と認めるわけはありませんが、いつから国技と云われるようになったのでしょう。

          IMG_4946.jpg 写楽画 大童山文五郎

明治42年(1909)に今までの小屋掛けの土俵から両国に常設館が開館します。

館の名称が直前まで決まらずにいると、開館式のために小説家江見水䕃の起草した披露文に 「相撲は日本の国技なり」 とあったことから、年寄尾車が着目して 「国技館」 の名称を提案したというのです。

山本先生はこの 「国技」 を美称・僭称(身分を越えた称号を勝手に名乗る)であると明言します。

大正時代に昭和天皇が赤坂東宮御所で台覧相撲を行い、摂政宮賜杯(後に天皇杯)を下賜して以来、度々天覧相撲が行われ、戦後も中日に国技館で相撲を見るのが慣例となった。

昭和天皇の相撲好きが、相撲を国技と称しても誰も不思議に思わないという思考構造を生んだのだとの見解を示します。

もしも、天皇が柔道を好きで見に行っていたら、柔道が日本の 「お家芸」 でなく 「国技」 となっていたであろうとも云うのですね。

国技館という名称に釣られて、無責任に相撲を国技と称するマスコミに問題があるのではないかと苦言を呈しています。

伝統とはある時期に作為的に創出され続いていくものであると結んでいますが、歴史を知ると山本先生のおしゃる通りと納得できますねぇ。 

モンゴル力士が幅を利かせると益々国技とは・・・。





ペリーが来た町?!

昨日の江戸あいとは、久里浜・浦賀へ行きましたよ。

   鮨 鮪南蛮漬け

太平洋戦争後の酒田裁判で、石原莞爾は 「ぺりーこそ戦争犯罪人だ。ぺりーを呼んで来い」 と言いました。法務官はペリーが誰だか分かりませんでした。

石原は法務官に対して 「君は貴国の歴史を知らないのかね。日本は徳川時代どこの国とも付き合いをしてなかった。それを貴国のぺりーが黒船に乗って来て、門戸を開けろと迫り、列強との交わりを強要した。

門戸を開放してみると、列強はみな侵略主義の恐ろしい国だと知った。日本は自衛のために貴国をマネ侵略主義を習い、日本がやったら戦犯だという。だからペリーを呼んで来て、戦犯としてはどうか」 と言ったのですね。

   ペリー碑 ぺりー館
    ペリーの記念碑                    ペリー館

戦いのない江戸の世に突然黒船が4艘やって来たのです。

「泰平の眠りを覚ます ジョウキセンたった四杯で 夜も眠れず」 の狂歌に詠われたように、国中は大騒ぎになってしまいましたねぇ。

久里浜港に面してペリー記念館があります。ぺりーは久里浜に来航しましたが砂浜であったために黒船が接岸出来ず、幕府は浦賀に誘導しました。

ペリー館の前には、ペリー記念碑があります。

戦争中 横須賀市の翼賛壮年団は、記念碑を粉砕して靖国神社の参道に撒いて、参拝者に踏みつけてもらおうと計画します。

昭和20年(1945)2月に碑を人力で引き倒しますが、直後に横須賀市は空襲に遭いました。「碑が倒されたことを知った米国の報復だ」 と人々は噂しましたので、粉砕は沙汰止みとなってしまいました。

    東叶神社 渡し舟
      東叶神社                   渡し舟

それから半年のちに敗戦になると、GHQが碑の調査に来ました。壮年団は戦犯になることを怖れるのですが、当時の神奈川県知事は自分の命令だと責任を被り壮年団を庇いました。知事や壮年団の責任は問われることなく、昭和20年(1945)11月再建されたのです。

ペリー館には、ペリー来航時の様子が描かれたものが数点展示されているだけでした。

ペリー記念館からバスを乗り継いで浦賀へ、昼食は鮮度の良いお魚扱ったお寿司屋さんを広目屋さんが探してくれました。

お寿司と共に鮪の筋の酢の物や鮪の竜田揚げが出て、美味しい昼餉を頂きました。

     中島三郎助
     郷土資料館にあった中島三郎助のスタンプ

浦賀には幕末にペリーと折衝した与力の中島三郎助がいました。三郎助の剣の流派が天然理心流ということに皆は、何か腑に落ちないものがありました。今朝 広目屋さんが調べてくれて、天然理心流の二代目近藤三助(近藤勇の二代前)が浦賀に来て教えたということを知りました。

浦賀奉行所のあった場所や干鰯問屋跡を歩き西叶神社へ行ったのですが、修復中で格天井や彫刻を見ることが出来ませんでした。
    
東浦賀へは3分ほどの渡船に乗りますよ。東叶神社と三郎助の墓所のある東林寺、東叶神社の裏山は、浦賀城址で咸臨丸修復時に勝海舟が断食したという場所です。 曇っていたので、房総半島の影が見えるような。

裏山へは200段の階段を登りるのですが、午前中に行った愛宕山公園も200段以上の階段を登ったのですよー  登りの途中で息切れもあったけど、下りの方が怖いので慎重に降りました。

    お守りお守り1
    東西叶神社のお守り

西叶神社の勾玉を東叶神社のお守り袋入れて持つと願いが叶うとか、願いはないけど可愛かったので、購入してしまいました。

浦賀へ幕府が米国船を誘い入れたことは、浦賀の町を歩いて、朧気に分かったような??






 | HOME |  »

プロフィール


日向ぼっ子

Author:日向ぼっ子
小千住生まれ、大千住育ち 江戸が大好きなおきゃんな中年増で~す。
江戸文化歴史検定1級取得


最近のコメント



最近の記事



カテゴリー



最近のトラックバック



月別アーカイブ



ブロとも申請フォーム


この人とブロともになる


ブログ内検索



RSSフィード



FC2カウンター



リンク


このブログをリンクに追加する